沖縄戦を忘れることはできない

あの時「沖縄」は占領されていた

 今日6月23日は、太平洋戦争で唯一本土が戦場と化した沖縄での戦闘が圧倒的なアメリカ軍の攻撃で敗れた「追悼」の日である。

 初めて「沖縄問題」にかかわったのは、大学に入学して間もない時だった。

 昭和32年(1958年)春、沖縄に渡った。学内は60年安保闘争で騒然としていた。その中で、左右どちら側も沖縄の現状に確たる認識が欠けていた。沖縄では、冷戦の激化の中でベトナム戦争が険悪な状況になり東アジアの安全保障に沖縄は絶好の位置にあった。

 米軍は占領下の沖縄で基地の拡張を無造作にやってのけた。嘉手納基地の拡張。コザの海兵隊基地の強化が進められた。海軍だけは本土の横須賀、呉などが強化されたが、基地拡張は沖縄を本土とは全く違った地域とした。安保闘争と言う「政治運動」が高揚していた中で、日本の、戦後処理は全く進まない状況が生まれていたのだった。

 「沖縄県民期く闘えり。県民に対し、後生特別のご高配を賜らんことを」と言う電報を打ち、玉砕した大田実海軍中将の言やよし。

 まさに血涙下る沖縄の戦いであった。それに報ゆるに我々は何をしたのか。沖縄一中(現首里高校)の若者達が、流した血に思いをはせる者はいないのか。ひめゆり部隊の乙女たちの最後を伝えることを誰がするのか。

 「島ぐるみ運動」として、反基地闘争に立ちあがった県民に本土の人々はどのような支援をしたと言うのか。

 誰ともなく「沖縄へ行こう」と言う学生達が皮肉にも60年安保闘争に加わった学生達の中から生まれた。

 米軍の「特別許可」が無ければ沖縄に入ることもできなかったが、多くの先輩たちが支援をしてくれた。1959年3月、遂に沖縄に入った。鹿児島から船で一泊。 沖縄は米高等弁務官支配下にあって「民政局」主席が沖縄人が選出されてはいたが、実態は「軍政」だった。アメリカ軍は「占領地」と認識し、終戦直後は「B円」と呼ばれる「軍票」が使われ、その後占領地として安定的になりドルに変わった。

 初めて「ドル」を渡されたが、ドルの持ち出しは厳しく制限されていたために、すべて現地の先輩たちが面倒を見てくれた。

 町には米兵があふれ、星条旗が翻っていた。写真(上)は、米高等弁務官が君臨していた庁舎で、星条旗が印象的だった。


「60年安保」の陰で沖縄県民は闘っていた

 安保闘争の激しいデモの先頭に掲げられた「赤旗」はなく、日の丸が基地闘争のシンボルだった。我々は東京を発つ前に当時の社会党衆議院議員・高津正道氏から「本当の愛国心の有り様を見てきてほしい」と言われていた。日の丸を掲げ、米軍の銃剣の前に闘っていた沖縄県人の勇気に心を動かされた。

 南部戦跡では、県立第一中学校生徒で結成された「鉄血健児隊」の碑の前で涙を流した。「後世」に至って政府は沖縄の犠牲に何を持って報いたのか。血涙ここに下る思いがする。南部戦跡はまだ戦場の跡も生々しい「魂魄」が満ち満ちた場所であった。

 その歳の4月、皇太子ご成婚の祝賀行事で日本中は湧いていた。沖縄が返還されるのはまだまだ多くの歳月が必要だった。沖縄の学生は「本土へ留学する」と言う言葉を使っていた。本土に留学するか、アメリカに留学するかが選択肢のひとつであった。

密かに配備されていた核ミサイル

写真(上)は嘉手納基地の北側にあった中距離戦術核ミサイル「メースB」。返還時に「本土並み、核なし」と言う佐藤首相の「虚言」に国民はだまされていた。メースBは中国への牽制でであり、沖縄を米軍がどのように考えていたかがよくわかる。この写真も初めて公開されるものである。

 復帰後しばらくして、冷戦下の戦略が変化した。NATO正面で「戦術核兵器」が事実上使えないこととなり、西ドイツ(当時)トルコなどの「中距離ミサイル」が撤去され、潜水艦を使う「戦略核」が主役となってメースBは廃棄されることとなるが、それに沿って沖縄からも姿を消す。当時の「非核三原則」などは沖縄の米軍にとっては全くの「お笑草」だったのだろう。

 この「非核三原則」でノーベル賞を受けた佐藤首相は全く「戦略思想」に無知だったのだ。

 沖縄はそうした世界戦略の中で翻弄されてきた。

 我々には監視の米軍が付き、大学当局に行動が伝えられていた形跡がある。嘉手納基地内の米軍病院屋上で写真を撮っていたところへ突然「MP」が現れて「フイルム」を出せと迫られた。「記念撮影だ」と言い張ったが「それなら現像させろ」と言う。仕方なくフイルムを抜いて渡すと、翌日、将校が宿舎に現れ「3枚の写真を押収する。残りは返す」と現像されてフイルムと新しいフイルム1本を置いて帰った。

 町には「米琉文化会館」と称する小さな集会場が立てられ、毎晩のようにダンスパーティーが開かれていた。沖縄の若者たちはその場を使ってアメリカ化が始まっていた。

 今、沖縄は復帰して、かつての戦争や、占領時代のことを語り伝える人も少なくなった。

 普天間問題では、一度廃止された「地域振興基金」が復活し、軍用地の値上がりもあって、労働意欲の低下が問題となっている。「沖縄県人かく闘えり」と言った未来への展望は薄らぎつつある。こうした状況を作る政府、民主党の罪は大きい。歴史に断罪されるであろう。

 

 


 

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我が家の正月

上の写真が、我が家の伝わっている「秘法」です。 曾祖父「角蔵」が口伝で父に伝えたものを書きうつしています。 江戸時代のどの家でも同じようなものがあったのだと思います。

 左・厄神 右・歳徳神

上の写真は、毎年12月28日に当主が作る神様の寄り代です。特に左の厄神様は半紙の切り方が難しい。何時もうまくいかない。今回はまずまずの出来。

「歳徳神」さまです。三が日だけ、神棚からおろして和室の一角にお出まし戴きます。雑煮、洗米、若水を供えて当主がお祈りします。