2012.5.17

「沖縄本土復帰40周年」記念日。

 

メディアは「沖縄」一色。「まだ本当の本土復帰は果たされていない」と言う論調。の本にある「米軍基地」の74%が沖縄に集中している事実は、沖縄への「差別的政策」がその根底にあるからだ。基地のかかえる多くの問題は、本来なら「政治」がすべて解決できることなので有る。

例えば、普天間基地問題がその象徴的なもの。なぜ米軍が普天間を手放さないのか。それは日本政府が「基地の存続」を願っているからである。民主党の鳩山元総理が、普天間基地の県内移転を結団した時「海兵隊の抑止力の重大さに気がついた」と言う、馬鹿げた理由を挙げた。そんなことは誰にでも解っている。

 「抑止」とは何かを日本人は根底から考え直さなければならないだろう。普天間問題の解決は、日本人が本当に自ら国を守る決意が有るかどうかを試されていると言っていい。

「我が国は我が国民が守る」となぜ言えないのか。そうした国民を誰が守ってくれるのか。もし、我が国が南方、つまり中国、東アジアに向けて軍事的抑止力を持つと決意し、それに応じた「抑止部隊」を沖縄に展開した場合、どのような結果になるかをシュミレーションしてみれば選択肢が広がるであろう。

 現在沖縄には陸上自衛隊1個旅団が配置されている。その背後には北九州に西部方面1個師団が展開している。

 我が国の自衛隊には、機動性の高い部隊は「中央即応部隊」として空挺団を中心にした部隊が首都圏に展開している。

 沖縄に展開している「陸上部隊」は、離島「警備」程度で、機動的な部隊ではない。ここに、さらに1個師団(約9000名)の「即応部隊」を配置することにした場合はどうだろうか。

 但し、この部隊には各種の予想される事態に応じられる能力を持たせなければならない。具体的に言えば、「国際派遣部隊」で、国際連盟の紛争地域派遣能力を持つぶたいで有る必要がある。

 自衛隊の幹部の中にはこうした部隊の創設は「憲法違反」であり、東アジアの諸国からは「侵略部隊」として批判を受けるだろうと恐れている。

 では、なぜ、米軍なら許されるが「日本には許されない」のか。その問いには「憲法9条があるからである」と明快に答えることが出来る。

 普天間を中心に展開している米海兵隊は、そうした最悪の場合、どの地域にも侵攻出来る能力を持つ。その象徴的な装備は、この夏にも普天間に配備されるMV22オスプレイ機で有ろう。

 短時間に多数の部隊を空中から展開させる戦術機である。このオスプレイは、開発段階で多くの事故があり、犠牲者も出している。しかし、未完成な戦術機でも、配備する効果はある。危険を冒しても「侵攻」する体制が「抑止」の本質的な部分で有ろう。

 自衛隊が、米海兵隊と同じ「装備」を持つことはおそらく出来ないであろう。しかし、フル装備ではなくとも、米軍の後方支援を受けながら「抑止」を効かせることは不可能ではない。海上自衛隊は、派遣されて陸上部隊を護る「制空権」を確保しなければならない。このことは最低限容認しなければならない「軍事化」だろう。航空母艦の保有は避けて通れない。同時に航空母艦を護る戦闘機、対潜哨戒機、潜水艦など軍事には切りが無い。そうした、装備の持続にはまさに「日米同盟」の深化がとわれるので有ろう。

 米海兵隊に「代わる」自衛隊の配備が本当の「抑止力」になれるかどうか問われている。普天間問題、沖縄全体の「抑止効果」の問題など、核心的な部分での論議がされていないのを憂うるばかりである。

金環食を見ました。満足でした。

金環食を見た。5月21日午前7時35分。935年ぶり。満足。でした。

日食を見たのは少年のころ焼け跡でガラスにススをつけて覗いた記憶がある。今回は市販の「金環食グラス」を590円で買った。「いらない」と言う女房用に860円のグラスで我が家の門の前で見た。「見えた!見えた!」とひとりで大騒ぎ。「金環食」おそらく最後。30年後に北海道で見えるが、どうする、どうする。

 太陽は東の空約35度。寸前まで曇っていたが、約10分前から雲が切れてきれいに見えた。リングがくっきり。写真を撮ったが失敗。我が家の塀に木漏れ日のリングも。少々宇宙の奇跡に酔った。

 

木漏れ日で写った我が家の塀のリング

勝海舟の銅像は恥ずかしい

墨田川沿いの公園に建てられた勝海舟の銅像はいつ立ったのだろうか。後ろを見れば解ったはずなのに、何となく恥ずかしくって見なかった。「妙見様」のお参りの帰りにいつも見るのだが、「勝安芳」となっているのに気がついた。妙なもんだ。本名は「勝隣太郎義

邦」官名は「勝安房守義邦」号が「海舟」。

 「安芳」は明治になって幕府が消滅、通常は「安房」「安房」と官名で呼ばれていたのが、明治になって「安芳」と変えた。静岡から帰ったあとのこと。何となく「海舟」がいい。その上、幕府が消滅して「敗者」となった勝がいい。

 「敗者」になった人間の深みみたいなところがいい。歴史は「勝者」が作るものだが、「勝者」には取ってつけたような「明るさ」が付きまとう。西郷隆盛のイメージも「敗者」のヒダが見える。明治維新で名を挙げた人たちにある「明るさ」を司馬遼太郎は描いている。勝は遼太郎の小説にはそぐわないのだ。この銅像は何だか「明るさ」がある。本当の勝はどんな風体だったのだろうか。残っている写真は年老いた姿ばかりだ。銅像は若い。ペリー艦隊が江戸湾に来た時、勝は31歳。西郷隆盛は27歳。歳の積み重ねが人間の顔をどう変えるのかを考えた。

隅田川を歩く。祭りのあとのよそよそしさのなかで。

       工事中

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我が家の正月

上の写真が、我が家の伝わっている「秘法」です。 曾祖父「角蔵」が口伝で父に伝えたものを書きうつしています。 江戸時代のどの家でも同じようなものがあったのだと思います。

 左・厄神 右・歳徳神

上の写真は、毎年12月28日に当主が作る神様の寄り代です。特に左の厄神様は半紙の切り方が難しい。何時もうまくいかない。今回はまずまずの出来。

「歳徳神」さまです。三が日だけ、神棚からおろして和室の一角にお出まし戴きます。雑煮、洗米、若水を供えて当主がお祈りします。