「おめでとうございます」。慣例によりまして、我が家では当主が、歳末28日に、新年の「お飾りを」作ります。
まず、判紙で、「厄神」様(写真左)を作ります。竹は近くの空き地でとります。(練馬ではまだあるんです)。中々難しく毎年苦労します。「厄神様」は「竈」の上に飾ります。一年のもろもろの「厄」をこの神様に背負って行ってもらいます。大晦日の晩に近くの三差路に捨ててきます。「厄」を捨てるわけです。「厄神様」はしつこいので、捨てたらすぐ家に帰りますが決して後ろを振り向いてはいけません。
続いて「歳徳神」様を創ります(写真右)。去年の「歳徳神」様は、初詣の時に焼きます。新しい「歳徳神」様を飾り、神棚は「注連縄」で「結界」を作ります。
「歳徳神」様をお迎えして、当主は次の「呪文」を奏します。
流れ来る水はきたなき事はあらじと
払い給ひ 清め給えと申す
たまりし水はきたなき事はあらじと
払い給ひ清めたまいと申す
この、呪文を三回繰り返します。こうした「呪文」などの唱え方や、作り方は「秘法」と書かれた文書が伝わっています。本来は「口伝」でしたが、父が、祖父から聞いた事柄を書きとめておいてくれました。この中には「「お焚きあげ」の法、「刃渡りの秘法」などが書かれています。下がその写真です。
以上、我が家のお正月神事は終わりです。その詳細については、一昨年のお正月の様子を、そのまま書いておきます。では良いお年を。
そよ 春立つと
いふばかりにや
み吉野の
山もかすみて
今朝は見ゆらん
◆明けましておめでとうございます。
時が変わっただけで何となく華やぐ思いがします。上記は「梁塵秘抄」の祝い唄に ある一節です。
「今様」は、節回しが解りません。どのように謡うかは、その人の思いです。さぞ、 すがすがしい気持がこめられていたのでしょう。
このページは、我が家の年末から年始にかけての祝い儀式を書き留めておきま
す。
式事・祝い事
父が、曾祖父から聴き、書き留めてあった「式事」にそったものです。
父も去り、小生が毎年行っている家事式です。
息子が継ぐかは全く不明。ただ、この「式事」が、江戸時代から伝わっていることはやはり書き残しておかなくてはと思いました。
◆ 「六人百表泣き」と言われた極貧の旗本の家に本当にこんなことが行われていたかは不明。
◆上の写真は、毎年12月28日に当主自らが作る「歳徳神」と「厄神様」です。
右が「歳徳神」半紙を切って、竹で挟みます。
左が「厄神」さま。なかなか難しくて造りにくいのです。
まず、この二神を準備し、神棚を清掃、「おみがき」と称するお灯明たてなどを磨きます。しかし、この時は言わば「お掃除」だけ、神具には触りません。
◆ 新しい年の神様をいつでもお迎えできるように整えます。
右は「歳徳神」。左が「厄神」様。12月30日にお祭りします。
29日は「9」が「苦」に通じるとして一切の式事はいたしません。
後ろの「纏」ミニチュアは、縁起もの。小生が、縁あって落語家の園楽師匠から戴いたもの。神様のお出ましは大晦日。
◆ まず、夕食時に三宝に白米をお供えします。この時に当主が一年の「厄」を「厄神」さまに籠めるのです。
「払い給え清めたまえ、越し方のもろもろの悪き事々を籠めたまえ、この家に仇なす事々も去りたまえ。払い給え、清め給え、恭しく申す」
と、祈り、お灯明を付けます。
◆神棚は12月30日に整えます。
正面に「天照大神宮さま」その後ろに「地主神」(武蔵・氷川神社)の御神璽。
さらに我が家の特殊な神様やら、仏様が祭られます。
一番左に「恵比寿、大黒神」また、右側に「飯綱大権現」「不動明王」
が祀られます。しめ縄をはります。
これで「結界」が示されました。
新年になって、供え餅が正面に飾られます。
◆大晦日から新年への式事は面倒です。
まず、除夜の鐘が鳴る直前に歳徳神と厄神様にお灯明を上げます。
当主が「払い給え、清めたまえ」と2度言い、厄神様を近くの三差路に捨ててきます。後を振り返らずに家に入ります。
お副茶が準備され、神棚と、歳徳神のささげて、さらに「若水」をそれぞれ供えます。
◆ 我が家では、その後に「年越しそば」を戴きます。
当主は、地主神に初詣します。その際に天照大神宮・氷川神社の神璽を求めていえに掲げます。
三が日は当主が神棚、歳徳神に「平安無事」を祈ります。
以上が正月のしきたりです。もっとも旅行などがある時は時期をずらせることもあります。
◆しかし、幼いころや大学生になっても31日夜は長男は家で式事をしなければなりませんでした。
皆さんの家のしきたりがおありでしたら教えてください。
◆ 自らの出自を語るのはいささか顔赤らめる思いがするが、ホームページを公開するに当たっては匿名は無責任の誹りを免れない。
遡って先祖の文書を見ても、代々の墓所のある、目黒不動尊別当・天大宗泰叡山瀧泉寺(荏原郡)の人別帳にも曾祖父以前は不明である。
◆ それ以前は、家に残る若干の「文書」と、修験道を思わせる経典、仏具などから類推するほかない。祖父からの伝承は、それらの仏具、秘伝書にかかわるもので、かすかに無役「御家人」に連なっていたようだ。
◆ 姓は遠慮する。
元は本所・北割下水近くに住んでいたらしい。石高は「40石だと聞いている」と父は言った。極貧の旗本である。ただ、明治2年に書かれた「山岡鉄舟」の書額がある。「我が家の縁先で書いたから本物だ」と言われている。
◆さらに三振りの刀がある。
内一振りは、掏りあげて短くなっているが、そのために銘は「左」のみで切れている。鑑定では「備前もの」とされており、拵えもやや華奢だ。鍔には、秋の七草が象嵌されて、目抜きは「唐傘に猫」と珍しい。小刀は、刀身に討ち傷がある。
◆なぜ、江戸郊外の「荏原郡目黒村」に住んだのかも謎だが「伝承」がある。
無役であったから、幕末に上洛した形跡はない。おそらく「伝習隊」に入っていたのかもしれない。その多くは幕府崩壊とともに行方不明になり、記録もない。
明治2年の山本鉄舟の書があるのを見ると、新政府に参加した可能性もあるが、ではなぜ「荏原郡目黒村」にいたのか。
上野の山から逃げた?
◆ あくまでも「伝承」で、記録はない。わずかな文書と最早疎縁になった親類の話しかない。
ただ「どうも戊辰戦争には加わらかったらしい」と言うのが本当のようだ。彰義隊の名簿が残っている。国立国会図書館で保存されている「彰義隊芳名録」の中に「加藤」と言う名前の侍が2人いる。
一人は彰義隊・頭取並(中隊長扱い)加藤帰之郎。
もう一人は第18番隊まである内の第11番隊の組頭(分隊長)に加藤光造の二人で、その他には見当たらない。最も「元伝習隊」の平隊員は出入りが激しく記録が無い。名前のあった2人は、百石以上の旗本らしく、我が40石など二等兵だったのだろう。
◆伝承によると、我が御先祖様は、どうも彰義隊には加わらずにいたらしい。
元々同じ貧乏旗本の「渡辺家」からの養子で本所界隈で夜店の用心棒のような存在だったらしい。本家の「渡辺家」は、明治以後司法省の官吏だったらしく、祖祖母が幼少のころ「長野県の松本に裁判官で赴任した。その時雪の降る中人力車で山を越えた」と言っていた。
さて、御先祖さんは「彰義隊」には加わらず、八王子に逃げたと言う。
御存じのとおり、八王子は幕府時代は甲州口の守りとして「八王子千人同心」が約500名居た。千人同心はその昔に甲州を追われた旧武田軍の残党を、家康が「屯田兵」として江戸防衛隊を作った。
◆半農半軍の「防衛隊」で、平時は「日光警護」に当たっていた。どのような縁があったのか、この同心組を頼って八王子の「任侠者」の家に世話になったらしい。
当時八王子は府中を縄張りにしていた「小金井小次郎一家」が支配していたが、小金井小次郎は子分2000人と言われた「任侠人」。同心組と、小金井一家の食客であったと言う。
◆江戸末期に町人の間で「富士講」と言う宗教集団が大きな力を持っていた。富士山の「浅間神社」を守りその先達に「山伏」が講中を取り仕切っていた。明治政府になって、この「講中」の存在に注目さえれた。「四民平等」が「富士講」の精神だった。同時に富士講は神仏混淆の色彩が強かった。山岳仏教の広がりは気になった。
◆八王子には「山岳仏教」である「高尾山寺」がかなり大きな存在だった。高尾山様の飯綱大権現は、江戸市民の信仰が強く、江戸では「富士山」「大山」「高尾山」がそれぞれ「講中」を組織していた。
高尾山の山伏も100人程度いたらしい。我がご先祖はその高尾山の「修験者」としてかろうじて維新の激動を逃れたらしい。「富士講」の先達になって、町民の世話になっていたが、その名残として我が家の神棚には中央に「飯綱大権現」様が鎮座ましましている
◆「飯綱大権現」は世に言う「からす天狗」で、なんとその脇に「天照大神宮」があるのである。山伏が背に負った経典、仏具がまだ残っている。
神仏混淆のこともあって、やがて天台密教の「目黒不動尊」をたよって再び東京の「荏原郡目黒村」に舞い戻ったのであろう。
◆最もそれだけではない。同じ貧乏旗本同士が集まって「鉛筆」を作り売る職業にも参加している。「鉛筆」は当時最先端の「文具」。その製造、販売は結局失敗するが、この伝承はいかにも旗本の末路を象徴するものだ。
つまり御先祖様は「大したことはない元侍」だった。
我が家に古くから伝わる密教の「法具」五鈷と鈴。山岳仏教の修行者が持つもので、一般に「毘沙門天」が持つ煩悩を打ち砕く「武器」とされている。曾祖父が使ったもの。