人は何処まで恐怖に耐えられるのか

在京アラブ外交団が緊急記者会見

 在京アラブ外交団は、17日午後5時から、日本記者クラブで「イスラム国」による人質事件について記者会見を開いた。

 同アラブ外交団を代表してパレスチナ在日大使が「日本人人質殺害に関し、最大限非難するとともに強い憤りを覚えることを表明する」と「イスラム国」を非難した。

 同氏は人質をとっている「イスラム国」と称する組織は「国家ではない」と、表明し、単なるテロ集団と指摘した。

 同外交団の声明要旨は以下の通り。

「我々は、無実の人の殺害を禁じ、この世の卑劣な行為や悲惨さを看過せず、捕虜や亡命

者の保護を呼び掛けるイスラムの気高い教えや原則を語ってこのような野蛮な行為が行われたことに対し、遺憾の意を表します」

  メディアは交渉経過を報道するな

「イスラム国」を称するテロ集団が、人の命をあそこまで弄べるのかと底の知れぬ恐ろしさを感じさせた。

 歴史のなかで、私達は互いに憎しみ合うことで苦しみを乗り越える人の性を学んできた。

今回の「テロ」は、宗教の名を借りた愚かしい行いだった。何のために後藤健二氏が殺されなければならなかったのか。道理が解らない。「テロ」組織と、ヨルダン国とのやり取り、状況の推移から考えて、恐らくは互いの利益を得て、いずれは解放されるのだろうと思った。条件を持ち出した以上、結局はどちらが「どれらけ利益を得るか」で終わるものと思っていた。ところがどうだろう、何の利益も無い「殺戮」起きた。「殺害」と言う一方に驚くばかりであった。何の利益も無く「殺戮」のための「殺戮」が整然と行われたのだ。これは何かの儀式なのか。不条理の世界で説明がつかない。

 もう少し時間をかけてこの事態を考えたい。

 パレスチナ駐日大使・ワシード・シアム氏

   パレスチナ駐日大使・ワリード・シアム氏

  28日配信された「後藤健二」氏写真

「イスラム国」を称するテロ集団が、人の命をあそこまで弄べるのかと底の知れぬ恐ろしさを感じさせた。

 歴史のなかで、私達は互いに憎しみ合うことで苦しみを乗り越える人の性を学んできた。

今回の「テロ」は、宗教の名を借りた愚かしい行いだった。何のために後藤健二氏が殺されなければならなかったのか。道理が解らない。「テロ」組織と、ヨルダン国とのやり取り、状況の推移から考えて、恐らくは互いの利益を得て、いずれは解放されるのだろうと思った。条件を持ち出した以上、結局はどちらが「どれらけ利益を得るか」で終わるものと思っていた。ところがどうだろう、何の利益も無い「殺戮」起きた。「殺害」と言う一方に驚くばかりであった。何の利益も無く「殺戮」のための「殺戮」が整然と行われたのだ。これは何かの儀式なのか。不条理の世界で説明がつかない。

 もう少し時間をかけてこの事態を考えたい。

 連日テレビ、新聞で「イスラム国」と称するテロ集団の行為に、日本国民はあげて抵抗、壊滅への努力をしなければならない。

 これは「思想」を問われる戦いではない。「人質」をとって金銭を要求し、テロ犯人の解放を求める「凶悪」な犯罪である。

 こうした行為をあたかも「政治的行為」とする評論家や、テレビコンメンティーターを強く非難しなければならない。いま、何より求められるのは被害者、つまり日本政府、ヨルダン政府の行動を一切漏らさないと言う犯罪者への仕返しだろう。

 犯罪者は「インターネット」の情報拡散力を目いっぱい使っている。同じ土俵に乗ることは

相手を利するばかりであろう。

 「人質事件」では、必ず何処かで相手は姿を見せる。日本人人質事件で「金銭」獲得が目当てなら、彼等は「金銭」を受け取る瞬間に弱みを見せる。口座に支払うには恐らく第三国を指定するはずだ。その送金を追う捜査は彼等が姿を見せるに違いない。全世界的な罠を仕掛ける事もできる。その為にも我々は時間的な引き延ばしをしなければならない。

 何回かの「制限時間」の変更はその事を示している。

 また、捕虜交換の手段を使うにしても、必ず何処かで姿を見せる。攻守逆転する交渉はこちら側の「団結」が最も求められる。

 そうした原則を無視してテレビは「ヨルダン政府との協調」「全世界的な情報包囲網」などの実態をさらけ出している。

 事ら側の「ての内」を見せてしまっては「交渉」ではなく「犯罪組織」にひ伏しているのと同じだ。

 大した知識も無く「評論家」と称する者たちは、テレビに出演して「日本政府はヨルダン政府と捕虜交換方法の検討に入っている」などと空論を述べ、結果的に犯人の選択枝を広げてしまっている。こうした情報漏洩を防ぐことはIT時代には不可能かも知れないが、新聞も含めて沈黙を守ることが必要であろう。

 メディアは、自粛すべきである。面白おかしく交渉の経過を報道することを今すぐ辞めるべきだ。それは政府からの「自粛」要請におもねるのではなく、自らが決定する必要がある。

   メディアが創りあげた「テロ」集団

  交渉の相手が何者なのかを知らずにただ「人質を返せ」と言っても何処かで間違ってしまう恐れがある。

 今回、日本政府が仮の交渉相手とした「イスラム国」の実態を、我々は何処まで知っていたのだろうか。日本の「情報機関」は、この種の「秘密組織」にアクセスする力を持っていない。直接「情報収集」にあたる警視庁公安部は大半のメンバーが「ノンキャリ」である。情報の広がり、機密性に対して十分な力が無い。

 「IT技術」を使いこなし、日本をテロ戦争に巻き込んでしまったこの種の「犯罪」はもはや一国だけでは対処出来なくなっている。

     表現の自由をどう守るのか

 クラウゼブィッツの戦争論の柱に「戦争では、全ての行動は、霧の中や、月光の下のような薄暗がりで行われているように見える。それは異様で、しばしば実際の大きさより巨大に写るのだ」と言う論理的合理性をこのむ著者にしては珍しく情緒的な「情景」が描かれている。

 現在、「イスラム国」を称する過激テロ集団が好むのは、こうした「斬りの中」や「巨大さ」を感じさせる「情景」なのだろう。

 テロ行為は、歴史的に見ても常に「情緒的」である。一発の銃弾が第一次世界大戦を勃発させたように、「霧の中」「巨大さの錯覚」が積年の「嫌悪・恨み」を爆発させてしまう。

 フランスで起きた「シャルリー・エブド」攻撃事件は、そうしたテロの好例だろう。「イスラム国」を称した2名のテロリストを霧の中で見てはならない。

 「イスラム国」の行為を「戦争」と言ってはならない。この事件の直後フランスのオルドラン大統領は「我々は戦争の中にいる」と言った。

 「戦争」とは、「殺人」を合法化する。そうした緊張感のなかで、オルドラン大統領はEU諸国の平和的「団結」を呼び掛けた。

 あの日、パリに集まったEU諸国の首脳、ネタニヤフ・イルラエル首相など「戦争中」の要人などは、全てを「霧の中」に入れて手を組んだ。

 したたかな戦略のみが「現実の姿」を見せつけることが出来た。

 「言論の自由」が、スローガンではなく、国家の生きる道である事を教えてくれた。

平成 26年大晦日・またしても悔いるばかり

 安穏な日々ではなかった。ただ新しい生命がもたらされた。「孫」の誕生であった。

年少は馬上に過ぎ」の日々は遠くなった。一介の記者としてただ「正義」への思いが強かった。どれだけその思いが伝わっているのかは残念ながら解らない。幸いのことに「社会部」と言ういわば「世俗」とは隔絶された世界に自分の「正義」を持ちこむことが出来たのは幸いであった。

 「社会部」と言うと、何か雑然としたその時々の「社会的流行」を追いかけているように思われるが、決してそんなものではなかった。

 右であれ、左であれ、権力への「監視」をし続ける緊張感はつねに持っていた。数え切れない事件、事故、人の生きざまを見続けてきたという、一種の満足感はある。

 やはり、最大の「事件」は、東日本大震災だった。記者としてはもはや現役を退いてはいたが、多くの悲劇と、人の戦いを見た気がする。

 原発に象徴される「自然」と「科学」の狭間に置かれる社会を見た。これは選択の問題ではないだろう。ややもすると「反原発」は科学の進歩を止めてしまうような言い方が幅を利かせている。科学にせよ、自然の力を利用するにせよ、その基盤は「人の心」を考えることだろう。

 経済の立て直し、社会生活の立て直し。そのいずれをとっても「心」の問題をないがしろにしてはならないだろう。

 振り返って何をしたか。それは型にとらわれるから邂逅に走るのだろう。もういい加減に型を追うのは辞めよう。「残躯」はたいしては無い。

 毎年のように「歳徳神」を迎える準備と「全ての災厄」を払い清める「厄神」を祀った。

平成26年12月31日

   「神棚に飯綱大権現」様・「天照大神宮」様

     右「歳徳神」右「厄神」様を祀る

政治家に「大義」を求めるのは所詮無理だ

 今年中に「総選挙」があるとは誰しも思わなかったに違いない。確かに今総選挙を行えば与党の自民、公明が大勝することは解りきっていた。その上で「まさか?」と思っていた。安倍首相にそうした度胸があるとは思わなかった。

 経済が上向きであると言う客観的な情勢を読める者なら、「今だ!」と勝ちに行くのはこれはイデオロギーではなく「賭博的観」だったのか。

 それとも裏側に「そそのかし」の観を持った人物がいたのだろうか。

 11月30日。日本記者クラブで各党党首の共同会見があった。久しぶりに記者クラブに出た。何かしかの「政治的空気」を感じたかったからだ。

 しかし無駄だった。圧倒的に「安倍」を押し上げる空気に満ちていた。ただそれだけで政治的緊張などどこにもなかった。


「生らは元より生還期せず・・・」10月21日

 昭和18年10月、学徒出陣壮行会・冷雨降る

 昭和18年10月21日。神宮外苑競技場で「学徒出陣壮行会」が、冷たく降る雨の中で行われた。日米戦争は、早くも劣勢覆いがたく、東条内閣は中堅指揮官の不足を覆うために、旧制高校、専門学校、大学生の根こそぎ召集を計った。太平洋戦争は開戦当初の目覚ましい戦勝に南方方面で戦線を拡大していた。それまでの大学在校生で26歳まで召集停止の方針を変えた。まず文科系学生を即座に召集。幹部候補生とした。次いで19年にいたって理科系も動員した。

 歴史をたどれば、18年の戦線は、ミッドゥエーで敗れ、ガダルカナルでは補給が途絶えて多くの犠牲者が生じた。

 米軍は、南方方面で大反撃を開始していた。この「学徒出陣」は消耗戦の中でやがて破れ去る予感があふれる中で行われた。学生の多くは再び祖国に帰るあても無く雨の中を行進した。観覧席に動員された女学生の多くは、学業を中止されて軍事工場で働く日々だった。

 昭和19年秋には、早くも特攻兵器が造られ始めている。「神風特別攻撃隊」の編成は一体誰が命じたのか。戦後の検証でも未だに謎に覆われている。

 海軍では、軍令部参謀たちは未だに「あれは現場の判断に任せれた」と言う。記録では19年秋に、フィリピンの「第一航空艦隊司令官」大西瀧次郎が軍令部を訪れ「特攻作戦を決断せよ」と詰め寄った証言がある。

 これに対して軍令部総長(皇族)らは、命令は下せない、あくまでも現場の決心と志願によると拒否したことになっている。

 だが、その半年前から、水中特攻兵器「回天」が作製され、体当たり艇「震洋」が作製されていた。誰が命令したのか。これを「現場の判断」と言うのか。

 海軍による特攻がフィリピンで実施され、「体当たり攻撃」が行われたことは天皇に「上奏」された。天皇は「そこまでしなければならなかったのか」と嘆いたと伝えられている。しかし「止めろ」と言う下令はない。

 学徒出陣の悲劇の中で、東条内閣への不信が渦巻き、密かに「倒閣運動」が行われていた。

 この日、冷雨の中で、送る女学生も行進する学生も、涙したに違いない。

何かの勘違いではないか!

 10月13日付朝日新聞朝刊社会面

10月13日(月)

朝日新聞の朝刊(東京版)社会面を開いて驚いた。「従軍慰安婦」問題ではない。ましてや「吉田調書」誤報?問題ではない。

 「昭和天皇実録」の「秘話」と称する昭和天皇に仕えた「舎人(うどねり)」の思い出話が紙面のほぼ全面を使って写真入りで報じられていた。「昭和天皇 実録にない素顔」。ご一家支え42年」と言う見出しがあった。「舎人」とは、いわば天皇の身の回りの全てを扱う宮内庁職員。この舎人の語ったエピソードは、天皇の履く靴を出したがその靴の中に厚紙が入ったままだった、とか、テレビで水戸黄門が好きだったなどまるであえて語るべくもない中身だった。

 突然なぜこのような「皇室」ものが社会面を占めたかに疑問がある。「実録にない素顔」と言う触れこみに、社会部のデスクがどのような判断をしたかが知りたい。一種のヒマネタか企画記事としか思えない。

 天皇、皇后の東日本大震災訪問が、最近になって頻繁に紙面化されているが、こうした報道で、天皇の「人柄」を報じるのは可としても、その度に「素顔」として、一種の「レジェンド」として語り広がるのに何がしかの違和感がある。

 「天皇」のありようは「議論の外」とされているが、日韓、日中の間に広がる「歴史認識」は、まさに「天皇制」と言う、国の型そのものの論理ではないだろうか。

 「天皇」の人柄、あえて言えば「天皇」の人格と「天皇制」は、全く別のものであることは十分解っているはずだ。

 その前提に立って、今国民が天皇について論じなくてはいけないのは、国内の感情的な「物語り」と対外的な「象徴」としての「天皇」の在りようだ。

 そこには「人柄」の良し悪しとは全く別にしなければならない厳しい論理があるはずだ。

 朝日新聞はこのタイミングでなぜ「人柄」を論じているのだろうか。

 日本国憲法は天皇を象徴としている。「昭和天皇実録」は歴史の検証で、その結果、天皇は新憲法で「象徴」とされて日本国民統合のシンボルとされた。そのことをここで云々するつもりはない。「実録」の公表とともに、歴史的事実として「象徴」の意味を考えてみる必要がある。「象徴」には、それに値する「責任」がある。それは旧憲法での「天皇は神聖にして侵すべからず」ということと同じだろう。

 「現人神」として「政治」に関わり、「象徴」として歴史を繋ぎ果たした。天皇を始め、多くの官僚、軍人は歴史的「責任」と言う壁を安々と乗り越え現在を生きている。昭和天皇がいかに「人柄」が良くても天皇としての「責任」を何処かで果たさなければならなかったと思う。それは「戦争責任」をどう果たしたかということではないか。

 後世、歴史は「天皇」がどのようにして「戦争責任」を果たしたと言うのだろうか。

今から考えれば「神聖」な天皇は「退位」というきわめてシンボリックな「責任」を果たす機会を失ったまま今日に至っている。機会は何回もあった。サンフランシスコ講和条約締結時、沖縄返還による戦後の終結、在位60年など、天皇はそうした機会を捨て去った。

 そうした「責任」の喪失がその後の日本人の精神性をあやふやな」ものにした。朝日新聞はその一線を自ら捨て去った。

 ジャーナリズムとしてそれでいいのか。タレント並みの扱いをされている皇族、その制度をどこまで維持してゆく決意がどこにあるのか。

 本日の朝日新聞を読んで失望した。

  戦争責任と「統帥権」の歴史的存在

  皆既月食・来年4月まで見られない
皆既月食・来年4月まで見られない

10月14日(火)

 ことの是非を論じているのでない。旧帝国憲法は「天皇は陸海軍を統帥する」と明確に軍事的な全権限を「天皇」に与えていた。各大臣の「上奏」権とは全く別に陸軍参謀総長と海軍軍令部総長には「帷幄上奏」という行政権を全く超えた軍と天皇を直接に結ぶ軍事ラインがあった。

 天皇は「統帥権」を持ち、軍は「帷幄上奏」と言う他の何物をもしのぐ権力構造があった。

 開戦の詔勅は、政府の補佐により発したものとしても、軍に対する」「開戦命令」は天皇が発した。

 海軍軍令部総長に「西太平洋において米英軍を撃滅すべし」と言う「大本営海軍部命令(大海令)」は、「統帥権」を有する天皇が下命したと言う歴史的な事実は消えてはいない。

 「統帥権」は言わば天皇の名において軍を統率する権力構造であった。大東亜戦争」では、行政権である「首相」と、その軍事的補佐「陸軍大臣」、さらに帷幄上奏権をもつ「参謀総長」を東条大将がすべて兼務した。

 まして首相の推挙、任命権は「天皇」とそれに連なる「元老」にあった。こうした事実を考えれば「天皇」の今時大戦での「責任」は決して小さいものではなかった。天皇は満州事変、盧溝橋事件拡大に憂慮していたことは確かだったろう。別の観点からすれば「大権」を有する天皇は、その結果に対する極めてシンボリックな「責任」を負わざるを得なかった。

 歴史を「学問」として学ぶのはそうした冷徹な「事実」を後世に正確に伝えるべきものだからであろう。

 写真は大海令第一号に押された天皇の允可である。天皇自らが圧した「可」と言う印である。この重みを考えれば、凄惨な戦闘のなかで、死んでいった多くの人々の「霊」を深く考えざるを得ない。「歴史認識」とはそうした歴史の事実を心の奥深くに刻み込む過酷な重みなのではないか。

大本営海軍部命令(大海令)の第1号(開戦命令)に天皇自ら押した「可」の允令

アメリカが遂に空爆を始めた

20014年9月23日。アメリカは遂に超過激集団「イスラム国」壊滅を目指してシリア国内での空爆を開始した。

 オバマ大統領は最大の危機に自らの政権を賭けた。アフガンからの撤退でかろうじて「戦争の無い時」を造ろうとしたが、その期待もみじんに砕けた。軍事的に犯してはならない原則を捨てざるを得なかった。戦争とは、常に「勝利」を目指したものでなければならない。もし、オバマがそうした展望を持たずに「空爆」に踏み切ったとすれば、彼は歴史を学ばなかったに等しい。

 今回の「イスラム国」空爆は、誰も展望を持たない戦術であろう。彼らがアメリカ人ジャーナリスト2人を殺害、さらにイギリス人1名を殺害した目的は、オバマを筆頭とする「テロへの思い違い」を世界に知らせるためだった。

 過去の歴史で、ゲリラ戦に勝利することがどれほど難しいかはだれもが知っている。ましてや拠点の地下化、急速な移動力を持つ敵を捕捉し、撃滅させることは過去にほとんどない。

 「イスラム国」(isis)は兵力約3個師団。その補給線は細い。だが、地上兵力だけで考えれば、アメリカ軍とほぼ対等に戦えるだろう。

 空爆では、地下化した3個師団を叩けない。アメリカの海兵隊の投入は、周囲をゲリラ化した的に包囲されたままでは勝利の展望はない。

 最も危険な選択は、明日からはじまる国連総会で「国連軍」の結成が論議される可能性がある。オバマ政権が「国連軍創設」に反対の態度をとれるのか。

 カギはロシアと中国が持つ。テロ集団の壊滅をはかる「国連軍」は、ウクライナ問題を抱えるロシアとウイグル問題を持てあましている中国は、そう簡単には賛成しないだろうが、その逆も考えれれる。一時しのぎのような外交が展開されると、全く想像もしなかった状況に追い込まれる危険がある。

 ハンチントンの「文明の衝突」が現実となり、歴史的な「戦い」が勃発するかも知れない。アメリカの軍事専門家は「地上軍の投入以外にイシラム国を壊滅させることはできないと言っている。

 オバマはこの危機をどう乗り切るのか。世界はかたずを飲んで彼を見つめることになろう。

 

 殺戮集団となった「イスラム国」はどこに行く?

昭和の軍人たちは幻を追って無言で去って行った

  日吉台の旧海軍戦争遺跡を見る

ひどく暑い夏が終わろうとしていた。9月4日、練馬三田会の企画で、日吉台慶応大学キャンパスの地下に広がっている旧海軍の地下壕を見学することが出来た。

 思ったより巨大な地下壕に驚き、我々が生きてきた「昭和」と言う時代がいかに激烈な歴史を抱え込んでいたかを感慨を持って見ることが出来た。戦争と言う不条理がこの地下壕の中に満ちていた。多くの人たちに見ておいてもらいたい。新しい行動が求めれたような気がした。

昭和19年7月7日。サイパン島陥落。「玉砕」という言葉が国民の中に深く、広く伝わった。この年の3月、海軍軍令部第3部が、慶応大学日吉キャンパスに移転してきました。元々軍令部は霞が関にあり、海軍省を含めて霞が関には海軍の中枢部分が存在していました。

 東京への烈しい空爆、海軍の主力であった連合艦隊もレイテ沖海戦で敗れてほとんどが「戦略的」役割を放棄していました。

 歴史に「痛恨」と言う文字を深く書きこんだ「特攻作戦」が始まろうとしていました。

「特攻」はもはや「作戦」ではなく、捨てばちの「行動」でした。

 その最中に空爆を避けるが如くに軍令部だい3部が日吉に移ってきたのです。軍令部は陸軍で言えば「参謀本部」。統帥の極にある組織で天皇陛下に直属する軍事組織と考えてもいいかもしれません。

 第1部が作戦、第2部が装備、第3分が情報で、無線傍受、情報の分析を行っていました。

 同時に論じられたのが「旗艦先頭主義」と「長官陸上主義」の議論でした。元々連合艦隊は戦域が広大になるに従って陸上にあって総合的指揮の元に作戦を司令すべきだとの意見もありました。サイパン陥落に続いたレイテ決戦の敗北、台湾沖海戦の惨敗など、連合艦隊の戦力は見る影もないものとなっていました。

 当時の連合艦隊の主な戦力は

 航空母艦  鳳翔

 巡洋艦    八雲 酒匂 鹿島

 潜水母艦   長鯨

 敷設艦    箕面

 

 戦艦は、「長門」が中破して横須賀に繋がれていました。「大和」第2艦隊の旗艦として瀬戸内海に停泊していました。

第一艦隊は事実上壊滅。

 豊田副武連合艦隊司令長官(大将)は、台湾沖海戦の陣頭指揮で敗れて、木更津沖の第一艦隊旗艦「大淀」から、日吉台に上がった。連合艦隊司令部と、軍令部第3部がこの「日吉壕」を拠点とすることになったのでした。本土決戦と言う名目のために、壕は巨大化されてきた。

 

 

連合艦隊司令部が日吉台地下壕に移ったのが19年9月。同時に海軍省艦政本部、人事局なども移転し日吉壕は巨大な海軍施設となったのです。

 同年10月25日。神風特別攻撃隊がレイテ沖で初めて体当たり攻撃を行いました。

「特攻」は最早「作戦」ではありません。

 1950年代に旧海軍の軍令部参謀が、相当な頻度で「太平洋戦争・反省会」が密かに開かれています。当然のことながら、「特攻」について「誰が命令したのか」が論じられています。結果的には軍令部、海軍省から「命令がでたことはない」と言う不愉快な議論が当時の主要参謀の間で論じられています。「特攻は命令ではない、隊員自らの戦闘行為だったのだ」と言う論理です。しかし、大和の海上特攻が、当時の豊田連合艦隊司令長官の現場での決心であったと言う強論は、納得できない。

 日吉台から発信された「沖縄突入命令」が、それほど感情的な精神主義であったとしたら多くの戦没者にどう説明するのか。

 日吉台の地下壕は海軍の技術力で他に例を見ない遺構です。しかし、この地下壕で、何をどう戦うつもりだったのか。「本土決戦」がどんな悲惨なものだったかは沖縄を見ればわかる。海軍の参謀たちはそれを知りつつ「地下壕」を造ったのか。

 日本人のもつ精神主義が、それほど愚かな結果を呼んだとは到底思えない。

 日吉台地下壕が堅固であったことは、我々日本人がどのような民族であるかをもう一度考え直す絶好の機会だろう。

 

 夏草しげる「本土決戦」の戦争遺構

八月十五日・千鳥ヶ渕戦没者霊園に参る

毎年8月15日には、千鳥が淵の「戦没者墓苑」に行くことにしている。靖国神社でも参拝するが、やはり、太平洋戦争の戦争責任で心が痛む。

 戦争の経緯を見れば、天皇の戦争責任はどこかで糺しておかなけらばならないのだろう。今の日本が隣国の中国、韓国に説明できないのは実は「天皇問題」ではないのか。日本人は自らの痛みを思い起こす時のような気がする。

 

 暑き夏に 生まれきし 我が孫に 平安あれと祈る墓苑で

 

 多くの若者が逝きしかの夏 蝉の声よ高く泣け

 

 

 

 

物々しい「機動隊」の警備は何を物語るか

 毎年、この種の見世物が戦没者の霊を汚す

 半旗が何を語るのか。人々は礼を忘れている

 年々、靖国社への参拝が増える。何を語るか

   静かなる抑止力へ

 今日、世界は思わぬ「動乱」の時代に入ってしまった。世界の指導者、リーダー達はまさかこの抑えがたい混乱がすぐ隣に起きようとは思ってもいなかったのではないか。

 ウクライナ問題は多少の外交的な駆け引きがあっても、ヨーロッパ特に、EU諸国とロシアが真正面から対峙することになるとはまさに、想定外であった。

 それでもクリミア半島がロシアに併合される危機は「軍事的抑止」によって「方がつく」とぐらいには思っていたのかもしれない。

 クリミヤのロシア帰属は「米ロ」で黙認される歴史的推移があった。住民の多くがロシア人であることは緩やかな外交的流れですむはずであった。

 ウクライナ東部の「独立運動」も、多少の小競り合いがあっても、世界を揺るがすほどの「危機」が発生するとは思わなかったのだろう。

 歴史と言うものは「造られる必然性」をもっている。ただそれに気が付くのは歴史学者が「自伝」を書こうとしてからである皮肉な事柄なのである。

 不覚の限り、志の低き査証ではあった。

◆7月17日(木)

 一度はやるだろうとかねがね思っていた。油断があった。英信流の居合は実戦的で古武道の中でも「斬殺」を目標にした剣だった。

 「鞘の内」を第一の教えとして、勝敗は「剣」を抜き放つ瞬間に決まる技であった。かねてからその「奥義」を説かれてはいたが、いささか時代離れの「殺人剣」を身体に浸みこませるのは酷だった。

 2段になって、真剣を使ったのは、最早、歳でもあり、「剣」の持つ気合いを味わってみたいと言う「興味」が先走っていた。

 まさか、その瞬間に自らの手頸を「斬る」ことになるとは思わなかった。明らかに「剣」の威力を軽く見過ぎていた。

 「振りおろす剣は、真正面の敵を顔面から水月まで深く切り下げるとどめの一撃である」と教えられ、幾度も真剣に教えられていた。

 特に「横一刀」から、深く振りかぶり、斬りおろす瞬間は全身の動きでもあった。

 振りかぶる瞬間には、1、2ミリの間合いで剣先が己の顔の前を通る。

 「間髪を入れずに斬る」とは髪の毛の程の隙間を斬りおろすと言う。その刹那に、左手で柄を支える。「刹那」の剣運である。

 鞘を下に落とさずに右手で目の前に下ろす。その「剣先」を左手で持とうとした瞬間だった。剣先は、左手の人指しユビ下を刺していた。

 ほんの1,2ミリ左手を無意味に引いて、体を横に出していた。

 「しまった!斬った」と感じた。痛くはなかったが、鮮血が飛び出した。床に血が広がっていた。「先生!斬りました」と叫んで、懐にしていた和手拭いで、傷口を押さえた。

 痛みはなかったが、見ると、約3センチぐらいの傷口がポックリと開いていた。血はさほどでなかった。先生が手拭いで手頸をきつく縛って、近くの外科医院に連れて行ってくれた。

 若い医師が「なんで斬りましたか」と言った。「日本刀です」と答えると医師は不思議そうに「刀は錆びていましたか」と言う。「いえ、綺麗です」などと説明にやや時間がかかった。

 「縫いましょう、神経系統や血管を切ってはいません大丈夫でししよう」と言った。

 4針縫った。血は止まっていた。麻酔をかけたので縫っている外科手術は全く感じなかった。

 「英信流」が実践的な「居合」であることが今さらながら解った。普段の練習でも、鞘離れの一瞬、横一刀の斬り手など、基本の剣運は全てが「一瞬」の型であり、1,2ミリ、いやもっとま近なところを身体が動いていることになる。

 しかし、この「刹那」を体験した以上、もう辞めることはできないと思った。このまま終わったのでは何のために剣を持つかの答えも無く続けることになる。これまでの中途半端な生き方が続くとおもった。

 抜糸まで10日。じっとして「剣」を磨き、人生最終盤の気迫を持ち続ける決心をした。何と言われても「真剣」を使い、「刹那」の意味合いを問い続けることにした。

「華やぎ」を求める生き方が・・・

◆7月7日(月)

七夕に台風来襲。自然は何と無粋なことか。

 「日本記者クラブ」での岸恵子、吉永小百合の「対談」を聞いた。二人とも「みめ麗しき」人柄だった。二人で出した「対談集」の出版記念と、宣伝にのった企画だったが、それを承知で「対談」を実現させた「日本記者クラブ」の粋な計らいではあった。

 思うことが多々あった。中でも一つだけ心に深く残ったことが語られた。

 岸恵子が「わりなき恋」をあえて書いた気持を「人生の終盤に、夢でもいいから、虹のたつような華やぎがあってもいいのではないか、そう言う思いで書いた。なんて言われようといいの」と言った。

 その後で「虹は消えるしね」とぽつりと言った。

 女にしか言えない人生への「麗しき」思いなのだろう。

 男は、やや違った「華やぎ」を求めるのではないか。男はこうした「虹」をかなぐり捨てることが出来る。

 「男らしさ」と言うのとは少し違う。「生きて行く」ことの不条理さをムシャムシャと食べかじり、飲み込んでしまう「生きざま」を、日々見過ぎているのではないか。

 何を勘違いしているのか、男は、リアリストであることを誇りに思う癖がある。

 神様が「男」と言う生き物に与えたとんでもなく間違った「贈り物」だった。

 吉永小百合、は「理路整然」とその「虹」を語ることが出来るように思えた。こう言う「女性」は、近づき難いところがある。「夢千代日記」で八方塞がりの人生を知ったが、それが今になって「反原発」に結びついて、その間を直線を引くこととなっている。曲がりくねった道をよたよたと進む者にとっては羨ましい。吉永は「体育会系です」と言った。

 二人の女性の限られた語りで、思い過ごしもあるが、「おんな」と「おとこ」は何処で別の道を歩くことになるのか。近頃、「男」が極端に無粋になったようなきがする。高度成長が「男」からいつの間にかスマートさをひっぺがした。

 人に価値があるとすれば「なりふり」であり「一瞬のしぐさ」だろう。「なりふり」を構わぬ男のなんと多くなったことか。「礼法」は「仕草」にこだわる。かつて日本人は「礼法」にこだわった。それ学ばず、人間の「卑しみ」を、まるで胸に付けた「勲章」の如く言いつのる。そうした「礼」を失った男の何と多きことか。

 「君子の交わりは水の如し」は、「絆」と言う流行語に押されて、古くさくなり、流行らないが、「水」の爽やかさも、捨てがたい。水は流れ去り、時に雨になり、虹となって消える。

 

 

岸恵子は81歳だと言う。容姿ではなく、やはり立ちい振る舞いに程良い「年齢」が出ていた。スマートであることの大切さ思い出していた。「華やぎ」も好いものだ。

 ◆6月8日(日)

 梅雨、まさに梅雨。曇天に快気模様すことなし。何をしても「老人」を意識してしまう。本も読む気がしない。昨日の朝日新聞夕刊に漱石の文庫本が売れているとの特集があった。特段の事は無かったが、老いていま、かつての「漱石」に青春を求むるとの事。

 一句あり

 「入梅の気部屋に満ちて、眠れぬ夜に漱石を読む」

三四郎が美弥子に言われた「ストレーシープ」の一言。「迷える羊」であろうが無かろうが人生は最後半に至った。永く降った雨にヤマアジサイが頭を垂れた。ときめきが消えてゆく。幾つもの大きな試練を超えたと思う。人一倍に激動の社会を見てはきた。だが、それが何と云うのだ。すっかりと消えてしまい、確実に次の世代に移っている。会話の中に「その、ちょっと前の事だ」と云うことが多くなった。

「ちょっと前」などは誰も知らない。覚えていない。

我々の世代は「ちょっと前」に戦争があった。ちょっと前に「天皇が人間」になった。ちょっと前に「ラーメンが35円」だった。

 三四郎はちょっと前に「日露戦争」で勝った世代だ。彼はちょっと前に恋をしたが、そのちょっと後に失恋した。

 いまさら「こころ」を読んで「私」を「先生とは違った所にいた人間」と言っても始まらない。

 雨に打たれたアジサイの花に、やがて来る「炎天」と、轟音のない入道雲を思うのはまさに「ストレーシープ」の心にあこがれる老人である。

 

 

◆6月9日(月)曇りのち雨

 知らぬ間に「ある恐怖」が心の奥にうまれつつあった。住む世界がいやに狭くなったと感じる。形而上のさまざまな事柄は70数年も生きてきて体験している。人の「死」も多く見た。生死の事柄は生物学的な理屈で納得してきた部分も多かった。「多かった」と云うのは、職業柄「死者数名」などと云う「速報」を何度も書いたせいかもしれない。死を数字でしか顕せないマスメディアの不条理さに「記者」を辞めた者もいた。たった一人の「死者」に「ホッ」としたこともある。ことの大小を「死」と云う生物学的な納得で「次に」移ってしまっていた。

「行方不明ある見込み」と云う消防庁の速報を「一人ならまだいいか」と、聞き流す仕事がなんで身についてしまったのか。

 東日本大震災の後、日本記者クラブで会見した多くの科学者は原発事故について「想定外の事態が起きた」と云った。

 「トランスサイエンス」と云う分野は、科学が進化すればするほど広くなる。科学を超えるものとは何か。

 形而下の世界が無限に広がっている恐怖感は「科学者」には感じ取ることが出来ないのだろうか。科学は「形而下」の恐怖を取り除く作業だろう。としたら、「形而下」の広がりを一番初めに体現するのは科学者だろう。IPS細胞を造り出した科学者といえども「細胞」その物を造り出したわけではない。細胞の「初期化」に成功しただけであろう。細胞の持つ「生」が、形而下の「聖」に繋がることを一番初めに見たのは山中博士ではなかったのか。

 「初期化」された細胞が「脳」細胞に変化し、人間の生きている意味合い、なぜこの苦しみに耐えなければいけないのかなど、初めから「やり直す」ことが可能になるのか。キリストや釈迦の「生」=「聖」への思いを生みだすことが出来ると本当に思っているのか。

 人智の及ばざることの何と多いことか。

 

 

上の写真は、庭で見つけた生まれたばかりのカマキリ。か細い生命の美しさが漂う夏の初めだった。

◆6月11日

雨、身にしみるがごとく。はたしてこの国は「集団的自衛権」を論議するに値するかを考えている。明治維新、いや幕末の「政治」にかかわった者たちはずる賢い「外交」を考えていた。まず「この国を守るに値する国かどうか」を命をかけて考えた。

   彼らは江戸幕府が間もなく崩れるであろうことを歴史的な「観」で分かっていた。まず国際的な感覚を国民の隅々にまでわからせようとした。造られた言葉は「自由」「人権」だった。そんな概念は「封建制度」ではありようは無かった。「自由」と「人権」を国民に与えることは同時に「国家への義務」を課する。その最たるものが軍役だった。

 国民皆兵は、「自由」「人権」の代償だった。士農工商ほ身分制度は「士」を最上階に置いて、軍役を彼らに委ねた。

 封建体制の一つのありようではあった。日本と云う「国家」が、まさか全ての国民に「軍役」を求めるとは思わなかった。

 大村益次郎は「このシステム」が出来上がれば「維新は90%」出来たと同じだと考えていた。戊辰戦争、西南戦争までは、国民は軍役の義務をそれほど意識しなかったに違いない。

 ところが「日露戦争」に至って、想像をはるかに超えた「流血」を求められた。一方で手に入れた「自由」「人権」は、「権利」としては存在していたが、「国家」が存在を危うくする時点で、身動きの出来ない重圧となって返ってきた。

 「権利」と「義務」の区別が出来ない社会が維新によって出来あがってきた。

 今、日本は「国」を保つための「義務」を担うはめになったと言っていいだろう。「平和憲法」を維持するためには、やはり「義務」も背負わなければならなくなった。こうした中で、平和を守る「権利」は論じられても、その一方で最悪の場合「軍役」を課せられる現実に行きあたってしまった。

 迷うのはいいことだろう。もう少し迷えばいいと思う。出口のない議論に思えるが、今迷わない国民は、将来に大きな代償を払うことになるだろう。

◆6月17日(火)

 忘れていた。「6・15」。

「第一次安保闘争」の最終段階だった。二つの誤りが心の深いところにある。「あの時」などと云う心の衰えが激しく身を覆う

 「安保条約」の現実を「沖縄」で見てきたこともあった。米軍基地の金網の外で別世界のアメリカ軍人を見ていた。嘉手納、コザ、キャンプハンセンの巨大な軍事抑圧。

「安保は変えなければいけない」「日本に取り戻さなければいけない」

そんな思いは、より実現性のある「改定」派に身を置くこととなっていた。「改定」ではなく「廃棄」を選ぶべきだったという思いが一つ。もうひとつは「自衛力」の充実だった。冷戦構造の厳しい中で核なしの軍事力がどれほどの「抑止力」となりうるのか。行き着くところは「日米安保強化」の選択だった。

 そのどちらも歴史的には正しい選択だったような気もしないではない。

 「あいまい性」の中に身を委ねる性癖は今も変わらない。

 「6.15」では逃げた。小雨の中を逃げた。

翌16日朝刊に「七社共同宣言」が載った。「よって来る所以はともかく、暴力はこれを捨て国会議論に帰れ」と云う思いもよらぬマスメディアの変節だった。たった前日まで「大衆行動」に身を寄せていたマスメディアは、反安保闘争を「不法化」にした。

 デモ行動を「暴力行為」にしたメディアの歴史に対する変節ぶりは落胆の極みだった。メディアに対する失望などいつの時代にもあった。いっそそちら側に入るほかないのではと云う実に都合のいい、「あいまい制」の誘惑があった。

 日米安保改定が成立し、大衆行動への失望感が広がるなかで、就職活動を始めた。

要するに「大したことは無かった」のだ。

いつも、曲がり角で間違う。それほどの「間違い」を思い出しもせずにいる。

「6・15」は大したことではなかったというほど老いた。

◆6月18日(水)

台風は熱帯性低気圧に。曇天。

昨日記者クラブ。防衛研究所の増田主任の「中国情報」を聞く。

ほとんど新情報は無し。人民解放軍の「統帥」は如何なるものか。中国共産党中央委員会常務委員のチャイナセブンに全ての権力が集中しているとは考えられない。

党軍事委員会委員長・習近平の統帥下にあるのか。常務委員会と軍事委員会の並列は結局のところ「合議制」を守ることになる。人民解放軍が「国軍」ではなく「党」の軍隊であることに限界があるのではないか。

 「軍」が「軍事エリート」化して「国軍」であることに「軍」の大義を意識すれば委員長の「統帥」にも限界が生じないか。

 クーデターが起きかねない体制でもある。毛王朝の継続は行き詰まって「天安門」事件に至ったのではないか。

 あの事件は民主化に傾いた常務委員会に危機を感じた軍のクーデター出は無かったのではないか。ウイグル自治区問題、チベット問題と云う国内危機を抱えながら軍の「統帥」が崩れれば何が起きるかわからない。

 危ういかな。

◆7月2日(水)

 心騒ぐ一日だった。新聞、テレビは早朝から「集団的自衛権」の閣議決定が本日おこなわれると言う「活字」が躍っていた。

 もしかしたら「歴史的な日」になるかもしれないと言う思いがつのった。長い間憲法9条は何時かは変えなければならないだろう、と思っていた。「改憲派」といわれればそうかもしれない。9条は「自衛権」を担保していると言っても「国防」の大義をここから読み取ることは無理だと思っていた。

 ましてや「前項の目的のため陸海空軍は持たない、国の交戦権はこれを認めない」と言う項目は、世界遺産と言われても仕方が無い。

 それなら「安倍内閣と同じだ」と言われても反論は無いが、それはわが青春と重なり合った論理ではなく「感性」の有り様だった。

 我が世代は大なり少なり「軍国的空気」の中で育ってきた。

 人間の記憶と言うのは何歳ぐらいからだろうか。父が召集令状をもらったことは、母が泣いている姿と共に覚えている。

 戦争が終わり、父が疎かい先の仙台に帰ってきたこともかすかに覚えている。

 なぜ憲法を変えなければいけないと思ったかは霧の中である。高等学校2年の時に「砂川闘争」があった。

 先輩に連れられて「立川基地」を見に行った。目黒の家の近くに「エビスキャンプ」と呼ばれていた「英国兵」の駐屯地があった。省線「目黒駅」のすぐ近くにあった雅叙園ホテルが、米軍将校の宿泊地だった。中学に進んで、省線「浜松町」駅に降りると元都電車庫に、米軍の補給基地があった。

 それが何だと言われても仕方が無い。父は、海軍木更津航空隊の「射手」だった。特攻隊に志願したと本人は言い続けたが、さだかではない。

 高等学校2年の時に「同人誌・仲間」を出した。その中で、米軍基地を舞台にした「小説」らしい一文を書いている。

 ある方の「詩」に添えて書いた「反基地」の筋書きだった。

 反基地が、反左翼にやや傾き、更に立野信之の「反乱」を読んで反米、独立派へと何となく「右派」への空気を吸うような日々だった。2.26事件、坂井三郎の「空戦記」など表紙が擦り切れるほど読んだ。「ジャンクリストフ「なんぞ「何だ!」だった。

 立川闘争から、共産党の六全共での裏切り。大学へ入っての60年安保闘争との葛藤など、今思っても日々身体が揺さぶられるほどの日々だった。

 高等学校2年の時に母が死んだ。母と安保、大学紛争と母。それらがごっちゃになった数年間だった。

 その時期の母を亡くした緊迫した思いは身体に浸みていた。それが近頃になって消えて行った。自分もそう遠くない時期に「記憶」の中に座り込んでしまうのだろうと思うようになった。

 戦争と言う暴力、生きていくには暴力もまた命の一つであることも言わねばならない。

 「戦争反対」「憲法守れ」もいい。同時に「俺が暴力を振るうのも許してくれ!」と言いたい気持ちだ。日本人は民主主義を身につけた。しかし、民主主議と言うシステム(イデオロギーではない)を信じている。しかし、民主主義と言うシステムには「多数決」と言う致命的な欠陥を持っている。

 その欠陥を今知り始めている。安倍は何か直感的なモノを持っているのかもしれない。  

  国の「かたち」を考える

◆6月27日(金)

 

  我が家に残された「面頬」である。恐らく足軽クラスのものだろう。

「ほんのちょっと前」の話である。希望して「防衛庁」(当時)の担当となった。第4次防衛力整備計画が国会で激論されていた。

 「型」で考えるとよくわかるが、航空自衛隊が「F4」フアントムを導入、その一番機が三菱重工で生産された時代であった。

 おかしな話だが、「フアントム」には「空中給油」装置が付いていたが、「攻撃的兵器」と国会で追及された。

 「専守防衛」の「自衛隊」だから、例え「自衛のため」とは言え、「長距離攻撃」が可能となる「空中給油装置」は、他国の「脅威」となる理屈だ。

 結局、その装置は外された。

「ちょっと前」まで、自衛隊は「抑止力」とは言えない存在だった。

 今日の毎日新聞には「集団的防衛力」の許容範囲について、自民、公明がほぼ調整が終了、来週早々にも集団的防衛力についての政府解釈が「閣議決定」される見込みだと言う。

 憲法の「政府解釈」が行われることについては確かに止むおえない事柄もある。ただ「ちょっと前」まで、法制局の憲法解釈が「集団的防衛力の行使は憲法の認めないことがらである」と言っていたのを思うと、いささか感慨深い。

 ましてや「国連安全保障理事会」の決議に基づく武力行使も許容されるという「集団安全保障」論が閣議決定されると言う報道には驚きであった。

 日米同盟を前提にした「自衛のための武力行使」は、様々な議論があることは「同盟」の有る以上仕方が無い面もある。

 だが「「集団安保」となると「武力行使」は、大きく限界を越える論議になる。

 例えば「国連軍」が結成された場合も「参加」の余地を残すことになる。

 一つの例だが、もし北朝鮮が武力をもって南下した場合、在韓米軍は「国連軍」として応戦する。未だに朝鮮戦争は、北朝鮮と「国連軍」が休戦協定で戦闘を止めているのが「歴史的事実」である。

 もし日本が「集団安保」を基盤とした場合、自衛隊は「国連軍」として自動的に戦闘に入ることになる。まして国連軍の指揮官は米軍に属しており、司令官の下に在韓米軍、韓国軍が作戦行動を起こすことになる。

「ちょっと前」に戦争があった世代、朝鮮戦争の発生を記憶している世代としては、

いささか取り残された思いもするのである。

 憲法が変えられないのは、論理の問題と、先の大戦で300万人の犠牲者を出したという心理的、形而下的な思いがあるからであろう。

 「集団的防衛力」、それよりも何よりも、一政権の勝手な解釈で「憲法」が事実上の「改憲」になるなどもってのほかである。

「声容盛んにして武備衰う」は古来言われる通りである。

 

 

◆昭和をかなぐり捨てて

◆6月27日(土)

「嫌ならよしゃがれ」が勝海舟の言い草だった。五尺の小躯をもって幕府解体の歴史を作り上げた。

 「国」という概念を全身にみなぎらせて事に当たった。国イコール「藩」という世界観を変えた。後年彼は旧幕臣、旗本が西郷率いる「薩軍」に加わるのを全力を挙げて抑え込んだ。西南戦争が詰まるところ「藩」の反乱に過ぎないことを見通していた。

 幕府無く藩の無い「日本」の形を外側から冷ややかに見ていた。

 「国のかたち」は誰がつくるのか。

「毀誉は他人の主張するところ。我に関ることにあらず」と言い放って栄辱から遠のいた。

 維新から37年。日本は「日露戦争」に突入した。日清戦争に反対していた勝だが、勝はまだ日露が戦うには「国力」が不足していると感じていたに違いない。

 維新を乗り切ったかつての「志士」達は政治に「合理性」を求めていた。列強各国が清を武力で追い詰め、帝国主義的国家を「最善」のありようだと思っていた時代である。

 歴史を見れば、日露が衝突する必然性はあった。と同時に、清国を舞台にしての「帝国主義」的アジア支配がそれほど長く続くとも思われなかった。歴史とはそうしたものだ。

 今、日本は「国」のかたちを変えようとしている。ここで変えてみても歴史は、必ず

次の「舞台」を用意している。一番いけないのは「歴史」を変えたと思う猛々しい心だ。

      平成26年甲午元旦

◆大したことではないが、今日一日で時代が大きく変わっている実感があった。昨日に買い求めた「門松」を立てた。自室には「厄神」様を祀った。一年の厄災をすべて背負っていただいて、大晦日の内に捨て去ろうという魂胆だ。この祭事は口伝で伝わっているので、そのとうりにした。

 しかし、少し変わった。いつも西武線「保谷」駅の前に店を出す「鳶」職の頭が姿を消していた。門松はもう何年も前から、花屋で買っていたが、注連縄はここにしかなかった。駅の周りを見て回ったが何処にもその姿は無かった。

 ここ数年、特に今年はスーパーや、コンビニ、100円ショップで輪飾りや、注連縄を売っていた。小ぎれいで安い。「鳶」の頭も仕方がないほど「形式化」していた。

 大泉学園の商店街でやっと注連縄を買うことができた。歳末の風物詩といえばそれまでだが、歳末は、一年をひっくり返して自分を客観視できる「時」でもあった。

 そう大げさに言うまいと思えども、やはりさびしさがあった。

 

もう一つの寂しさがあった。「居は気に移る」ということだ。この練馬の地に住むようになって最早30年を経た。子供の頃に心に沁みついていた「師走」の風が全くない。騒がしい音も無い。匂いも無い。目黒の家は決して繁華街ではなかったが何かが心を騒がせる風があった。それは「酉の市」「万燈行列」に繋がる空気の断層が見えた。

 露地をまがってすぐに「鳶の頭」の家があった。名前は思い出せないが、「頭」は何でもできる「親方」だった。正月の門松を立て、町内で餅つきをした。まだ熱い餅をちぎってもらった。

 ある日突然にして練馬の正月を味わった。つまり何もないのである。

 我が目黒のコミュニティーには「ペンキ屋の金ちゃん」「酒屋のチコ」「氷屋のカネチャン」などがいて、正月が来るのに大変な騒ぎだった。「写真やの順ちゃん」もその仲間ではかなり上品(?)だった。初詣は目の前の「大鳥神社」で、午前0時にならされる大太鼓の音で「正月ダー」とはしゃいで寝られなかった。

 歴史の無い町ほど面白くないところは無い。練馬の西の果ては尾張藩の狩り場であとは百姓の「田地」だった。

 その土地に何の因果か住むこととなった。

「居は気に移る」とは良く言ったものだ。

 いつの間にか「練馬の気」に飲み込まれた。いまだに終の棲家とは思えない。

 これは大切なことなのかも知れない。新しい年はこの「気」から逃れることを真剣に考えようと思う。

 

◆元旦。鎮守の神「石神井氷川神社」に初詣に行った。いつもの様な混雑は無く、「少しならべば好い」と思いつつ、列の後ろに付いた。

 ところがとんでもないことに気がついた。

一人ひとりの「祈る」時間が何時もと違う。長いお祈りがあった。特に若者が二拍の後に祈っていた。礼法はどうも「室町時代」に出来たものらしい。それまでは人々はなすがままに祈っていた。小笠原流の影響で神社では「二礼二拍手」。「礼は頭を下げずに、腰を45度に傾け礼の終わる瞬間に目を神に向ける」とあります。二拍手(出雲では三拍手)のあと、直礼して、其の時に願いをこめる」と言います。観察していると、皆さんかなり正しい。ただ最後に礼を(やや浅く)する時に何故か「手をあわせて」祈ります。

 その時間が長い。本来「神道」では、聖なるものに汚れが無いようにと「払い給え・清め給え」と呪文を言うのですが。この祈りは「神」の「おかげで」と感謝する見帰りのない祈りでした。今に伝わる「おかげ参り」は「おかげ様で」のこと。たが「感謝、感謝」の祈りで、御利益は願わなかった。その「祈り」の時間の長さが何を意味するのか解らないが手を合わせて祈るのは「仏事」に近い。

 計ってみると、一人約2分。長い人で3分。人の祈る後ろで3分待つのはしんどい。結局約1時間かかって神殿に到着。

 家に帰って娘に聞くと「今神社参りが若い女性に広がっている」という。「パワースポット」というわけである。

 好いのか悪いのか、明日のことに自信が持てない社会のでき方が何かを「祈る」行為で不安定になっているのではと思う。

 

平成甲午元旦

 

 

 

 

 

上の写真は「石神井氷川神社」の拝殿です。雑踏と、お祈りの合間にすきを見てとりました。

上の写真は、我が家の神棚です。中央に「天照大神宮」様、その後ろに鎮守の「氷川神社神璽」右奥に「飯縄大権現様」「不動様」左に家内安全の「恵比寿大黒」様と所狭しと安置されています。3年前からは左奥に「妙見大菩薩」の御札も加わりました。「妙見様」は「北辰」つまり「北斗星」信仰です。勝海舟が信仰していたと聞き、本所の「妙見堂」にお参りに行き加えさせて戴きました。

 我が家の菩提寺は天台宗の「目黒不動尊」です。つまり何でも好いんです。お守り、御札が増えるので女房殿は「何なの?」と不思議がっています。まあいいやな!

信仰深い「日本人」・どこも行列

◆1月5日

 毎年のことで今年も「神田明神」「湯島天神」への初詣に女房と出かけた。もう相当ながく続いている。寒さがひどくいささかたじろいたが、出てしまえばどうってことない。正月気分の再確認みたいなもの。

神田明神は信仰深いニッポン人の列で満員。4列に並んで延々と参道まで人で埋まっていた。「江戸城」の鬼門に位置する「商売繁盛」の神社。毎年正月の三が日を過ぎてくるので、「今日は大丈夫」との思惑が外れて満員。これでは1時間はかかると見て、「ウラ参拝」。社の裏側に「合祀社」があり、個々には日本中の「神様」が祀られています。そこで念入りにお祈りして退散。恐らく6日の「仕事はじめ」では、サラリーマンの大集会が出現するだろう。

 

心機一転、気合いを入れた「残心録」を!

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我が家の正月

上の写真が、我が家の伝わっている「秘法」です。 曾祖父「角蔵」が口伝で父に伝えたものを書きうつしています。 江戸時代のどの家でも同じようなものがあったのだと思います。

 左・厄神 右・歳徳神

上の写真は、毎年12月28日に当主が作る神様の寄り代です。特に左の厄神様は半紙の切り方が難しい。何時もうまくいかない。今回はまずまずの出来。

「歳徳神」さまです。三が日だけ、神棚からおろして和室の一角にお出まし戴きます。雑煮、洗米、若水を供えて当主がお祈りします。