近頃になって、しきりに「猫」がもてはやされる事態となった。まさかあの「漱石先生」の「猫好き」に感化されたとは思わないが、加えて「猫カフェ」なるものがゲテモノ好きの「浅草っ子」にもてているのも時代か。
吾輩はそうした流行りものを追いかけているにあらず。ただ「寅」と「猫」を同じに扱うのを絶対的に「拒否」しようと思うのであります。
猫は、ローマ時代から「カワイイ」などと、人々に追いかけられて、結局は無防備な「動物」になってしまった。
そんな勝手な動物は非難されて仕方がない。犬を見よ。彼らは飼い主に中世であり
、場合によっては命までもささげる、実に清廉潔白な人生・・・いや犬生を全うしたのです。少し面倒でも、吾輩は「寅」であって、あの「名前」の無い「猫」とはべつであります。「猫」はジメジメとした縁の下にいてニャーニャーナー泣いていたらしいが、吾輩は違う。
いつの時代に「寅」は日本に現れたかは判然としないが、琳派旺盛の時代、早くも天下にその名を表していたんである。
十二支の「寅」は、豪傑、勇猛の名を天下に知らしめていたのだからすごい。
琳派が盛んに「寅」を描かせたのは、「寅」の勇猛さを見せびらかし、従う者を驚かせるため。今の日本間が出来たのは「室町時代」。公卿の出で閑静な文化を喜んだ「侍」だか「坊主」は、そんなものには驚かなかった。勿論、山城が中心の武士たちには、琳派のような豪華絢爛の広間などあろうはずもない。天下に威勢を示し、家来どもを驚かすには、「寅」は最適。
平城の天守閣、広間に至って「寅」は殿さまの愛玩となった。
薄暗い座敷で、ものすごい目つきの「寅」は旗本たちに「解った従う」と言う風景を作りだした。
嗚呼、「寅」よ、加藤清正公の槍先で天下を睥睨したのであります。
ここで、かの「猫」さんとの比較にあいなるのです。
昨今、吾輩の日々はまことに見っともないものでして、こんな一生そう長くは続か無いのでしょう。そこで、あることないことを書き連ねて、一人で面白がるのも一興。我が孫が読んで「バカバカしい」と言ってくれれば成功。
さて、あの偉大なる漱石先生は、ある時「オタンチンのパレオロガス」と妻の鏡子さんを叱ったそうです。?・鏡子夫人は?。
「パレオロガス」がどこの言葉か解りません。その上時々「オタンチン」が入ります。これはわかる。「オタンチン」は「オタンチン」なのです。
漱石山房に出入りする高名な学者に「パレオロガス」は何語?と聞きまわります。皆さん知らない。
そこで、鏡子夫人は考えました。「オタンチン」の「江戸なまり」に違いない。
それでも「パレオロガス」はわからない。ある日夫の大先輩に聞くと話のとっかかりがあった。オタンチンは、この高名なローマの偉人、いや武人か。何と「コンスタンチン」であった。つまり「コンスタンチン・パレオロガス」はローマの武人の名前だったのだ。
最近、日本記者クラブで、あの憧れのカロライン・ケネディー中日米大使に会いました。嗚呼、今は昔。あのカロラインちゃんは皺が深いおばさんでした。さすがスタイルは抜群。「吾輩寅」は、あの年に新聞記者とやらになったのです。
昭和37年4月。毎日新聞社入社。止めときゃよかった。この歳に入った同類は35名。新聞記者採用がこんなに多いのは毎日新聞発足以来の珍事。
「3・7」のブタと笑われた。何でも2年後の「東京オリンピック」要員にとかつてないほどの記者を採用したらしい。オイチョカブの「ブタ」は、「コイコイ」にもならない。
「寅」はびっくりするような大事件がお待ちかねでした。
あの「坊ちゃん」にあやかって、山ン中のドン百姓にやられて良いものか。翌日から晩飯は一切食わないことにした。
ところがとんだ計算違い。
この田舎は午後8時を回ると食い物屋は全部閉まってしまう。一番の繁華街は真っ暗だー。寂しいのなんの。昨日まで東京生まれで東京育ちと威張ってみたがとんでもない。
食わなきゃ元気も出ない。仕方がないから市の中央にある「ソバ屋」に転がり込むほかなし。そのそばと言うのがぼそぼそで食うたびにちぎれる。そば粉のそばでうまくない。東京のそばは二・八でrつるつる。3日目にしてソバ屋も敗退。
赴任先の「松本市」は、とんでもないところでした。ひどい田舎と言えば「田舎」だが、一日二日すると、ここの住民はとんだ「食わせ者」だった。3畳一間のアパートと言ったが、その部屋に入る玄関が無い。湿った露地から、窓によじ登って入る。2食付きと言うから、どんな飯が出るのかと思うと、窓から入った畳の上に「かつ丼」らしき食い物がある。エイヤと部屋に侵入して、どんぶりを抱え込んだら「ツメテー」。アパートの家主に「あんまり馬鹿にするな」と怒鳴りこんだが、頭の禿げたいかにも「いかさま野郎」然とした親父が「そうずらか」と言いやがる。「ずら。ずら」と言いやがるんでこっちも「イケネーずらよ」としまらない啖呵を切ってお終いずら。
自転車とオートバイ。まさかこの松本(風光明媚)で自転車を乗り回して「事件待ち」とは思いもしない日々の生活が降ってわいたのであります。
四海波穏やかにあらず
暫く面倒くさい話は先に延ばして、楽しく吾輩の周囲を取り巻いた「諸氏」の姿を追い、おのれの姿を顧みることにしたい。
今、四海必ずしも波穏やかならねど
日の本のやまとの国は
鼓腹撃壌の世をば現じ
御仁徳の下、平和は世にみちみち
人ら泰平のゆるき微笑みに顔見交わし
利害は錯綜し、敵味方も相結び、
外国の金銭は人らを走らせ
もはや戦いを欲せざる者は卑劣をも愛し
邪まなる戦のみ陰にはびこり
夫婦朋友も信ずるに能わず
いつわりの人間主義をたつきの糧となし
偽善の団楽は世を覆い
力は貶せられ、肉は蔑され
若人らは咽喉元をしめつけられつつ
怠惰と麻薬と闘争に
かつまた望み無き小志の道へ
羊のごとく歩み揃え
快楽もその実を失い、信義もその力を喪い
魂は悉く腐食せられ
年老いたる者は卑しき自己肯定と保全をば、
道徳の名の下に天下に広げ
真実はおおいかくされ、真情は病み
烈しきもの、雄々しき魂は地を払う
血潮はここごとく汚れて平和になごみ
ほとぼしる清き血潮は涸れ果てぬ。
天翔るものは翼を折られ
不朽の栄光をば白蟻どもは嘲笑う。
かかる日に、
などですめろぎは人となりたまいし。
◆9月7日(金)
何と言うべきか。政治は「大義」を失った。自らの利を求めて右往左往し、国民の信を失い信義は絶えた。
民主党は政権を捨て去ろうとしている。それも良いだろう。もはや消滅の道を歩み始めた。
◆9月8日(土)
政治家の大義いずこか。
昨日、野田総理は民主党代表選に出馬の意向を発表した。記者会見をしたが、最早、聞く耳を持たない気がした。報道は「野田氏圧勝」の見方を報じていたが、その根拠は、野田氏を支持する「議員」が多いというだけであり、メディアですら国民の目線を全く失っていた。
「近い内」にと言う「解散」風に身の置きどころがなく、ただ「誰と組めば選挙に勝てるか」との算段のみが永田町を駆け巡っている。
大阪では本日から「維新の会」が、政党化への討議を行う。メディアの予測によれば、橋本氏が率いる「維新の会」は、180人に迫る当選者が見込める。この票の中核はこれまで「無党派」と言われてきた「政治不信派」だろう。政治家に専門性はあえて求めないが、かつては「小泉チルドレン」「小沢チルドレン」と呼ばれた「議員になりたい」と言うだけの「議員」が生まれるのは必至であろう。早くも「橋本ベイビー」と言われる議員が生まれることを予想する者が多い。
今日現在、民主党代表選に立候補予定は、野田、橋口、細野(本人否定)。自民党は谷垣、石原、安倍、石破。誰でもいい。誰がなろうと「次期政権」は、連立でしかあり得ないだろう。焦点は「維新の会」。そうした政治状況を橋元はわっている。したがって「誰とでも組める」状況を作っている。
国民は何を求めているのだろうか。ここ数日は多様な政治の「気配」を読めなくてはならない。
帰り、傲然たる「入道雲」を見上げた。幼き日、いささか心残りある人と語る。この雲の中に入らんと欲するももはや遅し。
◆9月9日(日)
振り切らんと決し、正午「居合」の稽古に出る。上の写真は何時の物か定かではない。警視庁の「居合同好会」でおそらく初段をとったころのもの。「右八相」の残心の構え。斬り倒した相手が何時反撃に出るか解らず動いた瞬間に斬りつける構え。攻撃ではなく「後の先」をとる構えだ。
若かった。
父の紋付を借り撮った。懐かしい。その気合いいずこぞ。
思えばいささかの感慨もある。当時、警視庁の「七社会」(記者クラブ)に属して「過激派」を追っていた。火炎瓶、鉄パイプ爆弾、すざまじい投石。催涙弾の直撃を受けてお茶の水駅近くの路上に倒れた。しかし、若者達の心情も理解できた。
今、若者たちはその「気合い」を見せない。おそらく我々が見た「眉秀でたる」若者たちは戦後に「区切り」を付けることに懸命だったのだろう。「戦争」屈辱的な「敗戦」を垣間見た70歳代の我々には忘れられない記憶が残っているのだろう。今日見た「入道雲」には「音」があった。しかし、今の若者は「入道雲」ではなく「積乱雲」なのだろう。それを咎めるすべもない。戦争と、東日本大災害を知っている最後の世代かもしれない。この写真は、「入道雲」の中に見た「童心」の名残をとどめたくあえて掲載した。
◆9月12日(水)
日本記者クラブで写す。
いたって「呑気」な風景であった。民主党の「政権崩壊」は既成の事実にかぎりなく近い。その中での「代表選挙」は「こんなくだらないこともあったんだ」と言う記録として写真を撮った。浮かない表情の野田総理。あとの3人は何を言っているのかサッパリ解らない。マニュフェストの中身を反省する者はいない。記者の質問に野田総理は「増税を書かなかったことは申し訳ない」といってのけた。これだけでも「総辞職」ものだ。その意味ではこの写真は「記録的」なものだろう。
どの「世代」が、どこまで「責任」を持たねばならないのか。戸惑うことが多い。日本の朝鮮合併、中国への軍事的な進攻などは、今歴史を紐どけば責任の有り様が誰にでも解る。
その「責任」を誰が背負うのか、個人の名前を挙げることすら出来るのであろう。
1938年生まれ。その前年にヨーロッパではナチスドイツがポーランドに進攻している。日本は柳条溝事件(満州事変)を経て蘆溝橋事変で本格的な日中戦争に突入する。
その中で生まれて、軍国一色の雰囲気があったのだろう。七五三祝いの写真は「軍服」だった。
1945年終戦。焼け野原の東京で民主主義を教え込まれた。
今、その間の歴史に「責任」を問われてどのようにこたえれば良いのか。中国で起きている「反日」行動にどのようにかかわって行けばいいのか。日章旗を燃やし、石を投げる若者たちは「孫」の世代でもある。
確かに「満州事変」は日本陸軍の謀略だった。柳条溝の南満州鉄道を爆破し、現場に2名の「便衣隊」(中国人ゲリラ)を装った死体を放置し、現地陸軍は「中国軍の攻撃があった」として一挙に軍事行動に移った。朝鮮に配備された一個師団をこの機に進出させて、満州の全域を支配下に入れた。「満州国」独立を計った謀略だった。この謀略は陸軍参謀本部も知らなかったという。
中国にとってはこの日こそ「国辱の日」だった。
尖閣諸島の日本による国有化は、そうした歴史を思い出させるものだった。
恐らく中国は、パネッタ米国防大臣と次期指導者の「習近平」氏との会談(9月19日)で日中対立を収束させる意図を確認したに違いない。中国は日本に対して大きな一歩を勝ち得た。
野田総理とパネッタ国防大臣の間にどのような密約があったのかは解らないが、これまで日本は「固有の領土」であり「日中が協議」する対象とはなり得ないと言う立場を取ってきた。
つまり「尖閣諸島問題」それ自体が存在しないと言ってきた。それが、結局のところ「この問題をいつでもテーブルの上に載せられる状態を作ってしまった。まさに中国の思うつぼである。中国は「勝ちを制した」ことになる。
これだけ勝ちをとれば、最早反日デモなどは必要はない。収束させて民衆の怒りを中国政府に向かわせるようなことはしたくない。恐らく中国の海洋監視船は、尖閣列島周辺に常駐するようになるであろう。「協議すべき尖閣列島問題」が「ある」のだから監視船が居るのは当然のことなのだ。野田政権は取り返しのつかない外国的失点を残した。
上の写真は海上自衛隊で最大の「護衛艦・ひゅうが」である。一般に言う「ヘリ空母」で、本来の任務は、対潜ヘリ、哨戒ヘリを搭載して、敵潜水艦を探知し、機動艦隊に接近する潜水艦を攻撃する。中国はこの「ひゅうが」の運用に最大限の注意をはらっている。米国海軍はこれと同じような艦艇を各機動艦隊に配備している。呼称も「強襲艦」と称して上陸作戦では「海兵隊」「強襲隊」をいち早く上陸させる。海上自衛隊では米空母を護衛する艦艇として位置づけているが、対潜ヘリに代えて兵員輸送ヘリに代えれば、強襲艦となる。
例えば、中国が尖閣諸島を、実力で占拠した場合、制空権を確保(航空自衛隊)のうえ、陸上自衛隊の奇襲部隊を上陸させることが出来る。
中国海軍の海上戦略は、出来る限り「縦深性」のある「制海域」を持つことである。
南沙諸島での制海権獲得運動はそれを示している。
こうした「ひゅうが」の運用は、対中国海軍に対しての「抑止力」として有効である。
DDH「ひゅうが」はヘリ11機の満載で、19000トン。通常はSH-60ヘリ3機、MCH哨戒ヘリ1機を搭載し、対潜魚雷も装備している。同型の「いせ」も含めて「抑止力」としての運用が注目されている。
尖閣列島防御として、呉市に駐屯する陸上自衛隊一個連隊を含めて、沖縄の一個旅団。さらに那覇基地の航空自衛隊2個戦闘機部隊が存在することも中国にとっては気になるだろう。最近配備された中国の「航空母艦」が話題になているが、その航空母艦を防御する「イージス艦」は無い。軍事力だけを考えれば我が国は防御力は十分と言っていい。
中国は尖閣列島へは「監視船」の配備より増強することはないだろうと思う。外交はこうした軍事的配備をどのように使うかにかかっている。
工事中です。