終戦から間もない昭和29年1月24日。三人の男が東京・港区麻布狸穴の在日ソ連代表部を出た。3人ともオーバーの襟を立てて正門脇の通用門からでて、飯倉片へ緩やかな坂道を下って行った。ソ連代表部の灰色の高い塀が続いていた。代表部正門の前の道は広く、人通りも多くは無い。
道の反対側に窓ガラスにひびが入った小さな交番があった。警視庁は戦後に自治体警察となって治安維持がやっと保てる程度の力に過ぎなかった。米軍払下げの45口径軍用拳銃を下げた警官は早足で代表部を出て行った3人に何の関心も示さなかった。
寒さはひどかった。間もなく正午となる時間だった。
3人は飯倉片町の交差点で立ち止まった。その内の1人を両側から挟んで何か強い調子のやり取りがされていた。
赤羽橋方面から一台のバスが近づいてきた。サンフランシスコ条約が締結され、日本が敗戦の中から立ち上がったとは言え、米軍の「占領」状態は何も変わらない日々だった。昭和25年5月、朝鮮戦争が勃発し、その渦の中に日本の政治も社会も何も変わってはいない様だった。東京都内にも米軍の基地があちこちにあった。国会議事堂の前にはパレスハイツと言う広大な駐留米軍住宅地区があった。神宮前にはワシントンハイツが広がり、飯倉片町に近いところでは省線浜松町駅近くに補給基地があった。
こうした米軍の基地、住宅地を結ぶ「米軍専用バス」が東京の中心部を縦横に走っていた。モスグリーンの車体に白いストライプの入ったバスを、3人の内の1人が右手を挙げて停めた。その男は色白で背が高く、体格も良かったせいか日本人のバス運転手も何の疑いも無く停めて載せた。その際に残された2人はやや大きな声で何かを言いかけたが、バスは男を乗せたまま虎ノ門方面へ走り去った。
この男の姿はその瞬間に消えた。戦後最大のスパイ事件の発端だった。
太平洋戦争の傷は深く、日本の社会が「独立」と言う意識を持つのは歴史的に見れば「東京オリンピック」以降だったのではないか。サンフランシスコ条約は、日本人が西側に立つか、中立国家への可能性を信じるのかの大きな選択を迫られた。ソ連との国交回復が出来ないままの「独立」は、日本が否応なく冷戦構造の中に入るかどうかの選択をしなければならなかった。
結局、日本は「民主国家」と言うアメリカ主導の安保体制に組み込まれることとなった。占領中の日本を支配したのは連合国で対日理事会にはソ連代表も参加していた。サンフランシスコ条約に署名をしなかったソビエト連邦は、日本とは戦争状態を続けたまま旧ソ連大使館を「在日ソ連代表部」と称して使用していた。
対日理事会そのものが解散しており、ソ連邦は外交関係が途絶えた日本に「代表部」を置く権利を失っていた。
ソ連邦代表部が、何の法的根拠もなしに堂々と麻布狸穴に存在することに日本政府は不快の念を示していた。
事件は、そうした状況の中で起きつつあった。
「その男」が飯倉片町で卒然と消えてから3日後、今度は3名のソ連人が東京・桜田門の警視庁に現れた。
「消息不明者がでた。捜索して欲しい」と言った。外国人が窓口で「消息不明?」と話を持ち込んできたことに警視庁も取り扱いに困惑した。
警視庁の正面入り口には、警備の警察官がいたが、日本が独立を勝ち得るまではGHQ(連合国総司令部)の支配下にあり、米兵も警備についていた。「占領」と言う過去に味わったことのない異常な日々の中で、外国人が出入りすることに何の不信も持たなかったのは、その前の時代がいかに異常なものだったのかを物語るものだった。
桜田門にそびえ立つったくすんだレンガの塔を持つ警視庁の姿は、やっと治安の保持を自分たちのものにした日本人のシンボルのようにも見えた。
まさか、冷戦構造の始まった中で「米ソ」の確執がここを舞台にして繰り広げられるとは誰も想像出来なかった。
この日、警視庁を訪れたのは、ソビエト連邦共和国在日通商代表部のザベリエフ・V・Jを名乗り、その部下と思える2人だった。
内1人は日本語をよくはなした。通訳と見られるこの男を通じてザベリエフは「我々の同僚であるソビエト人1名が、三日前に行方不明となった。彼の身に何か緊急の事態が生じている可能性がある。至急捜索して欲しい」と言った。
警視庁はそれが外国人であり、行方不明の原因が何か女性関係の問題だろうかと疑った。この種の捜索依頼は多かった。朝鮮戦争の激化で、基地を脱走する兵士も少なくは無かった。窓口の受付は戸惑いながらも3人のソ連人を2階の防犯部少年課につれて行き事情を聞いた。
ザベリエフは盛んに緊急性を語った。防犯部の捜査員にザベリエフは1枚の顔写真を示して「何者かに連れ去られた疑いがある」と言う。
係員はただならぬ様子に気がついた。
「行方不明者の捜索」は4階の警備第2部公安第3課に引き継がれた。代3課はソ連担当だった。同課のベテラン刑事磯貝誠には、「亡命か?」と言う観が働いていた。
行方不明になった時の様子を詳しくじじょう聴取し始めた。ザベリエフらは、取り調べに近い事情聴取にやがて言葉少なになってきた。
「ソ連外交官行方不明」で、最後の目撃が「飯倉片町」の「米軍専用バス」となれなただ事ではない。
磯貝らは数人の刑事による聞き込み捜索を始めた。多くを語らないザベリエフらは捜索依頼をしたまま沈黙を保った。
「ソ連外交官行方不明」の一報は外務省に伝えられ、同時に写真を含めた身元情報が国警本部から全国に一斉手配された。
行方をくらました外交官はユーリー・A(アレクサンドロヴィチ)・ラストボロフ二等書記官・33歳だった。警視庁公安3課の諜報員リストには無い男だった。
何の手がかりも無く1週間がたった。届け出たソ連通商代表部も沈黙を保つと言う奇妙な1週間だった。磯貝は、行方不明から1週間目の2月1日、ザベリエフと、通訳の2名の出頭を求めた。
この時点で、磯貝らは飯倉1丁目のバス停で3人の男を目撃した近くの和菓子店店主の証言を取ることが出来た。
この証言は、その後「米軍に強制拉致された」と言うソ連側の言い分を否定する強力な目撃となった。
当時はまだソ連側も事態がさだかでは無く、ザベリエフは「1月24日午前11時40分ごろ、米軍専用バスを停めて虎ノ門方面に立ち去った」とラストボロフ二等書記官の意志でバスに乗ったような様子を語っていた。
ラストボロフ二等書記官がごく自然に米軍バスに乗ったことは、それまで一緒に居たザゾーノフ代表部員が「間違いない」と証言していると言うだけだった。
磯貝は当日現場付近で米軍バスを運転していたと見られる2名の日本人運転手から事情を聴いたが2名とも「覚えが無い」と言った。
太平洋戦争はその結末で多くの悲劇を生んでいた。日ソ中立条約を突然に破りスターリンの軍隊は逃げ惑う日本人を襲った。満州(中国東北部)を守るべき関東軍の主力はすでに本土防衛のために退却し、民間人と降伏した兵士たちは荒野に残され武装解除された。
ソ連軍に拘束された約60万人の兵士たちは「ソ連邦復興のための労働力」として祖国日本への帰還は許されなかった。特に日本人元将校への「戦犯裁判」は過酷を極めその傷は今日までも癒されずにいる。
過寒の シベリア、中央アジア、モンゴルなどの収容所で祖国をおもいつつ実に6万人が死んでいった。明らかな国際法違反、ハーグ陸戦条約違反であった。
敗戦と言う現実の中で歯を食いしばって日本人は耐えていた。
ごく最近、シベリア抑留の真実を追うロシア人研究家、アレクサンドル・ザベーリン氏が、モスクワの旧ソ連秘密警察、内務省人民委員部(NKVD)の文書を発見した。「戦争捕虜・抑留作戦部」が1950年に作成した秘密文書で、ロシア国立軍事公文書館に保存されていたものだった。
誰もがいち早く祖国日本へ帰りたかった。飢えと寒さ、重労働の無法な抑留は、戦後約10年にわたって行われた。厳しい制裁と、祖国で待つ家族の元への早期「帰還」で、スパイと言う忌まわしい選択を迫られた。
ザベーリン氏が発見した秘密文書は、抑留者をスパイ活動に利用していた事実が内務省の「極秘」事項として書かれていた。
それによると、日本に帰国後にソ連のエージェントとして利用する抑留者94人が選抜されていた。元軍人、外交官、新聞記者などその誰もが帰国後も日本の中枢に近づける可能性がある抑留者が選ばれていた。
加えて、一人ひとりの家族構成、親類縁者も記録され、その個人情報がスパイ宣誓書にサインさせる「脅し」に利用で来た記述があった。
氏名は伏せられていたが、成功例としては3人が挙げられていた。
この秘密文書によればソ連内務省人民委員部は、ドイツとの戦闘がまだ続いていた最中の1942年末に組織的に捕虜、抑留者からのエージェントの徴募を開始していた。始めは、反ファシズム思想のはっきりした者を選抜してスパイとしての教育をしていたが、次第に戦争が悪化し、同時に情報戦争の様相が強くなったこともあり、選抜の幅を広げて行った。
日本軍の60万人にも及んだ捕虜、抑留者を少し筒帰国させることは、同時にその中にスパイを潜り込ませる絶好の機会でもあった。
秘密文書にいれば「スパイ徴募への抵抗は食糧などの物質的条件の改善や、祖国の肉親との通信を許したり、完全に断ったりすることで打破できた」と書かれていた。
また、抑留者への尋問で政治、軍事や戦争犯罪についての機密情報を引き出すことに成功すれば「その事実は徴募の最良の材料になった」と記録されていた。
ラストボロフ二等書記官は消息不明のままソ連通商代表部も沈黙を続けていた。
警視庁・公安3課の磯貝警部補は、飯倉片町周辺の聞き込み捜査を続けるほかは無かった。ただ気になったのは、当時はすでに解体されていた米占領軍司令部に繋がっていたある情報機関の男が「ラストボロフには女がいた」と言う噂話を磯貝にもたらしたことだった。
「ある情報機関」とは、戦後米占領軍が密かに東京で組織した「キャノン機関」と呼ばれた反共工作エーゼントだった。
戦前の内務省・特別高等警察・特高が解体されたあと、日本の公安警察はわずかに開かれた米軍との情報ルートを作り情報活動をしていた。磯貝警部補は、「キャノン機関」との秘密裏の接触をしていた。
「キャノン機関」は、後に「下山事件」「松川事件」の主謀者として戦後史の一ページを記すことになるが、磯貝警部は、そうした謀略を知るよしも無かった。ラストボロフ二等書記官の私生活をマークしていたのは、実はGHQの参謀2部(G2)直轄の秘密諜報機関だった。
ラストボロフ二等書記官の本当の姿は、内務省の諜報部隊少佐であることを知っていた米軍は、2人の女性を使ってその行動を探っていたと言う。磯貝警部補に「女がいる」と言う不確かな情報はを持ち込んだ男は、キャノン機関の手先で、警視庁公安部にとっては貴重な情報源でもあったのだ。
磯貝警部補は、ソ連通商代表部と、在日米軍の秘密機関に挟まれて何もすることが出来ないで成り行きを見ているだけの日々だったのだ。
「女だ」とかすかな糸を手繰るような捜査がスタートしたのはラストボロフ失踪から1週間ほど経ってからだった。捜索チームは4人に過ぎなかった。
情報に間違いは無かった。
女は港区白金台町の小さなアパートに住んでいた。ラストロボフは週に1,2度のペースで通っていたと言う目撃者もいた。白金台町付近は東京では珍しく戦災に合わなかった。建てこんだ住宅街のアパートに住む女は当時としてはもの珍しがられていた東京駅にあった「東京温泉」のマッサージ嬢だった。
磯貝警部補はこの糸口に期待をかけていた。「キャノン機関」がマークしていたソ連外交官が日本で何をしていたのかを引き出そうとした。
しかし、この女はラストボロフをアメリカ人と思いこんでいたようだった。周辺の捜査では確かに英語が堪能で、端正な顔つきはスラブ系の人間とは思われない容貌でもあった。
「彼は国に帰ると言って随分も前から準備をしていた」と言う。「生活費も十分にくれた。そう言えば、私はよくアメリカ人の女性に、手紙らしいものを手渡す使いをしていました。このところ来ていないので不思議におもった」と言い、「GHQの職員だから連絡は私からする」と言い続けていたらしい。
「二重スパイ?」と言う疑念もあったが、何故「キャノン機関」がこの女を手先として使っていたかはまだ厚いベールに包まれたいた。
ただ、この女の証言からラストボロフの失踪前後の様子が解ってきた。それと同時に磯貝警部補にはこの失踪事件がただならぬ展開を見せるのかも知れないと言う直感があった。
アメリカ人の女性、マッサージ嬢の女の間を行き来するラストボロフ二等書記官の不思議な行動が磯貝には理解が出来なかった。
「マッサージの女はキャノン機関の手先なのか。もしそうなら我々は米国の諜報エージェントと、ソ連のスパイの渦の中に入りこんだことになる」。
捜査会議は思わぬ展開に戸惑い、手掛かりを求める方法すら思い当たらぬ状況になった。
磯貝は失踪直前のラストロボフ二等書記官の行動を追った。
彼は消息を絶つ1週間、前の1月15日午後2時30分ごろソ連代表部に近い港区神谷町二丁目の原田洋服店に背広の仕立てを注文していた。翌16日午後2時ごろには六本木に近い港区麻布新竜土町12、田中クリーニング店に洗濯を依頼、21日に港区赤坂溜池5、白洋舎にまた洗濯物を持ち込んでいた。
22日には正午ごろそれらの店を訪れて合計2140円を支払い持ち帰った。何かの準備をしていたのかプライベートと思われる動きだ。
マッサージ嬢の調べから彼は「近く国(アメリカ)へ帰るのでその準備をしている」と言って二人で土産物を買いにいったことがある」と証言していた。
磯貝は公安3課の記録をもう一度調べ直したがラストボロフらしい人物に付いての情報が1件だけあった。
昭和26年8月、ラストボロフらしき人物を追跡していた公安3課刑事が、日比谷の国際会館前で米空軍の兵士と待ち合わせているのを発見していた。空軍兵士はしきりに周囲を気にしていた。ラストボロフらしき人物は何かを兵士に手渡し、タクシーを拾って消えた。刑事は米兵を尾行したところ、間もなく同兵士に白人女性が近寄り銀座方面に消えたと言うごく単純な報告書が残っていた。
ラストボロフがただの外交官ではなく何らかの諜報機関に繋がっているとの推測はあったが、制限された捜査活動の中で全貌を明らかにすることは無理だった。
「24日の足取りを追え」と言う指示が3課員に下った。
消息を断った前日彼は何をしていたのかが焦点となった。
前日の彼は銀座にいた。銀座松屋デパート三階にある「ニューヨークシュリロ商会」の店先をのぞき、その日の午後は港区麻布盛岡町の「東京ローンテニスコート」でテニスをしていたことが解った。
失踪当日も謎の行動をしていた。ラストボロフら3人のソ連外交官が米軍専用バスを止めたことも目撃者はいた。丁度この日は、天皇皇后両陛下が葉山からお帰りになる日で、私服警官の周辺警備が行われていたこともあり、失踪後の行動も次第に明らかになった。
ラストボロフはその後日比谷でバスを降りた。有楽町にある「三信ビル」内の理髪店で髯を剃り、近くの米軍施設「アーニーパイル図書館」に入った。そこから、かねて知り合いのアメリカ人の女性に電話をかけている。
電話先が「キャノン機関」であったことは後にわかった。彼は電話をした女性と銀座のレストランで落ち合った。
「お分かりのことと思うが、私はソ連情報部の中佐だ。身の危険を感じている。アメリカに亡命することを希望している。ぜひ援助して欲しい」と言った。
彼女はその場で承諾した。同時に、午後8時に丸の内の「オールド海上ビル」付近で再開することを約束した。
ラストボロフの行動は大胆だった。アメリカ人女性と別れた後、中央区銀座東6~7、東京温泉に行き、トルコ風呂で汗を流した。当然、指名したマッサージ嬢に、それとなく別れを告げていた。
前日の雪がまだ道端に解けずにある寒さだった。夕食は「スエヒロ」だった。しばらくレストランで時間を潰したあと、尾行に注意しながら約束した接触場所を目指し歩いた。
午後8時「オールド上海ビル」付近に着いた時背後から一台の乗用車が近づいた。その車から一人の男が降りてきて、ラストロボフに「貴方はジョージさんですか、車の中でお友達が待っていますよ」と告げた。
無言でうなずき車に乗って去った。
数日前からの身辺整理の状況は、すべて計画どおりだった。亡命希望を告げた時に、アメリカ人女性がその場で、支援を承諾している。ただの女性ではない。また、マッサージ嬢も、ラストボロフの身辺整理の状況を知りながら手伝っている。二人の女性が、どのような経過でラストボロフに繋がっていたのか。
警視庁の公安3課がソ連諜報エージェントの一画としてラストボロフを追尾していたことも謎に満ちたものだった。