お待たせいたしました。新・平成残心録登場!

皆様、しばらくでした。長い間「平成残心録」を休んでしまいました。理由はホームページで発信する自信が無かったという他ありkありません。

言論としての力はそこに携わる気力を広げることが大事でした

 平成の世も終わりに近づきました。平成天皇の時代は思わぬ天災で終わりを告げようとしています。千年に一度の大地震。このホームページも、まさかこれほどの天災に襲われるとは夢にも思いませんでした。平穏に、快い世紀に終わると思っていました。それもあって、「平成残心録」と、いささか「武」ばったサイトを立ち上げました。ホームページを開いた時、まさかと思い、新しい時代を予測できると思いました。おそらく「平成残心録」は、だれも読んではくれないとは思いつつ書き続けました。ただ、老化激しく、「書き置く」ことだけに未練がありました。

 一人で引きこもって書くのも如何にも「老後」の気分がします。 長い間の記者生活で、思うことしきりです。何にでも思いを広げ、手を突っ込んで見たい性格は直りません。平成の終わりを思いつつ、この機に、少しづつ書きとめます。

 「残心」とは、武道の言葉でしょう。

 敵を斬ったあと、何時敵が立ち上がり、斬りかかってくるかを確かめるほんの一瞬の間、剣先を相手に向け静かに構える型です。相手を完全に倒したという確信を持つまでの「緊張感」がこれからの人生に必要な気がします。

 いささか思いあがりですが読み捨ててください。

 この他に「fcebook] にも「新・残心録」として、その時々の情報、近況などを投稿いたしております。ご意見をお待ちしております。この数年間は、日本の行く末を大きく変える激変の時代になるでしょう。いくつかのテーマに分けて発信します。

 

ホームページを再開しました。

  少年は馬上に過ぎた・不楽之如何

士道は去り戦いは終わった

 幕末に戦った勇者が一堂に会した

 ◆ 今、「世は平らかにして白髪多し、残躯は天の許すところ」と言うばかりです。

 友も、我も歳相応の「時」を過ごすところとなり、不可解な思いが去来します。  「一清不如」は確か松陰の言葉だったと思います。バブル最高潮の時に一冊の本に出会いました。  「清貧の思想」と題からして「挑発的」でした。  中野孝次の一冊に吸い込まれる思いがしました。曰く「日本には、現世での生存は能うる限り簡素にして心を風雅の世界に遊ばせることを、人間の最も高尚な生き方とする文化の伝統があった。私はそれこそが日本の最も誇りうる文化であると信じる。今もこの「清貧」を尊ぶ思想はわれわれの中にあって、物質万能の風潮の風潮に対抗している」。  「一清」とはその極にある思いでしよう。

 

 

 ◆「清貧の思想」の中で、当時思わぬ一文に出会いました。

源信の「往生要集」の一節でした。

「足ることを知らば貧といえども富と名づくべし、財ありとも欲多ければこれを貧となずく」


 「清貧」に向かい合うことは困難なことでしょう。  「私」を捨てることなどこの歳に至ってもできないでいます。身の周りを見れば不必要な「モノ」に囲まれています。それでもまだ「欲しいモノ」があります。  行き着くところの「貧」を知りつつ走り続ける愚を行っているのです。  「少年馬上に過ぎ」の思いは消し去ることはできません。確かに若さの限り戦った気がします。多くの傷を受けた。その傷を「向う傷」だと言って誇っていました。  馬上の時も一瞬のうちに過ぎ去りました。

 「清貧」への憧れを果たそうと思えばできるかもしれない。しかし、その一方で「あの戦いは何だったのか」という「私欲」を消し去ることはできないのです。


 ◆勝海舟は、明治政府の要職に就いた時に、福沢諭吉から「敗軍の将たるものやせ我慢こそ思うべき」と非難された。海舟は短い返事を書きました。

 「行蔵は我にあり。毀誉は他人の主張するところであり我に関するところにはあらず」

でした。  行蔵は「出処進退」のこと。自らが決めるべきことはある。しかし毀誉褒貶は他人が言うもので、「知らん」と突っぱねました。  勝には「福沢とは立っていた場所が違う」という思いがあったに違いないとおもいます。  「一清」に徹することの難しさは、「その時我は何をしていたか」にかかっているのかもしれません。   松陰は「一清」に生命をかけていました。それが「思想」として後世に残ったのです。勝は「思想」は残さなかったが幕府の幕引きという「歴史」を残したとおもいます。  行動をとるか、思想をとるか、そのどちらにも「憧れ」を禁じ得ないのです。

 


 ◆われ知らずと「歴史」の中にいることは許されないでしょう。それが「情報化時代」の悲劇的な側面だとおもいます。  キーボードをたたけば「歴史」のシュミレーションができ、見ることも可能な時代になりました。  一冊の本を表紙が破れるほど読み返し「知る」ことの難しさがあった時代とは全く違う世界に立ってます。  「一清」への思いがただマウスをクリックするだけで消えてしまう悔しさをどうすればいいのでしょうか。我らの時代は多くの犠牲を出した「太平洋戦争」を体験しました。  誰もがその犠牲者を身近にもったはずです。私にもシンガポール作戦で死んだ母の弟がいます。私自身、疎開先の仙台で大空襲を体験しました。あの業火の中を逃げまどったのは夢だったのでしょうか。  その自分が千年に一度の「大震災」を体験しようとは思いもしなかった。条件としては「一清」「清貧」こそ生きる道と言っていいのです。だができない。何故かの思いがある。まだ解けないものがある。

 このホームページは、揺れ動く加齢への恐れを記したいのです。冒頭に掲げた一枚の写真は長崎で撮られた「フルベッキ教官」の下に集まった英語伝習所の若者達の一団です。慶応元年4月写すとあります。  維新まで3年。氏名を記したしたことで「偽物」と言う謎の写真だが、そこに写った者はだれでもいい。若者達を見よ。「何かを」見つめている。決して「貪」ではない。心の「清貧」が見えます。

 携えた一刀に「暴力」への決意がある。正義の実現には「暴力」が事を決する一瞬があるとおもいます。この内何人が維新を実感したのでしょうか。

 このホームページは自らの「決意」を振り返るための駄文です。

 

 

    皆さん私達の周りにある「感激の思い」を広げることは出来ないのでしょうか。

つい先日、日本記者クラブの「プレスツアー」で、戊辰150年にちなんで、白河、会津若松を身と巡りしてきました。会津は、学生時代に訪れて以来の思い出の地でした。飯盛山の「白虎隊自刃の地」は、それ以来の事でした。

 官軍に負われて「自刃」の他に選択肢のなかった若者達が、見下ろした城下。その思いは永遠です。「ホームページ」再発信に向けた思いは、これから少しずつ書きためたいと思っています。

「平成残心録」と言う武張った表題ですが、「表紙」を選べる特権です。ご一読を。

 

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我が家の正月

上の写真が、我が家の伝わっている「秘法」です。 曾祖父「角蔵」が口伝で父に伝えたものを書きうつしています。 江戸時代のどの家でも同じようなものがあったのだと思います。

 左・厄神 右・歳徳神

上の写真は、毎年12月28日に当主が作る神様の寄り代です。特に左の厄神様は半紙の切り方が難しい。何時もうまくいかない。今回はまずまずの出来。

「歳徳神」さまです。三が日だけ、神棚からおろして和室の一角にお出まし戴きます。雑煮、洗米、若水を供えて当主がお祈りします。