左の写真は祖父である。写真の裏に、「昭和20年4月と書かれている。さらにかすかに残って鉛筆で「沖縄出撃」とある。

元々父は「職業軍人」ではない。18春に「海軍」の召集を受けて、横須賀の「海兵団」に配属された。航空兵としての訓練は全く受けておらず、第一写真がカラーであるのも不思議である。

父は家業の和装小間物店を次いでいたが、趣味として昭和初年ごろ流行した「写真」に凝っていた。サロン風の作風で「アサヒカメラ」に特集が組まれるなどの「趣味人」だったらしい。戦後、一転して「写真館」を開業している。「プレザトクラブ」という西山某主催のクラブで腕を上げたらしい。戦後、モノクロ写真に「油絵具」で色を付ける試みをしていた。

 この写真はおそらく、〉終戦間際に記念に撮られたものと思う。「沖縄出撃」と書かれた写真は「出撃」の際の最後の写真とは思えない。

 何らかの趣向、工作がなされたものと思われるが。それはそれで「戦争」のある一瞬を私に残したのだと思う。

 

左の写真は祖父である。写真の裏に、「昭和20年4月と書かれている。さらにかすかに残って鉛筆で「沖縄出撃」とある。

元々父は「職業軍人」ではない。18春に「海軍」の召集を受けて、横須賀の「海兵団」に配属された。航空兵としての訓練は全く受けておらず、第一写真がカラーであるのも不思議である。

父は家業の和装小間物店を次いでいたが、趣味として昭和初年ごろ流行した「写真」に凝っていた。サロン風の作風で「アサヒカメラ」に特集が組まれるなどの「趣味人」だったらしい。戦後、一転して「写真館」を開業している。「プレザトクラブ」という西山某主催のクラブで腕を上げたらしい。戦後、モノクロ写真に「油絵具」で色を付ける試みをしていた。

 この写真はおそらく、〉終戦間際に記念に撮られたものと思う。「沖縄出撃」と書かれた写真は「出撃」の際の最後の写真とは思えない。

 何らかの趣向、工作がなされたものと思われるが。それはそれで「戦争」のある一瞬を私に残したのだと思う。

 

日本で一番小さい「メディア」の誕生です

戦争の姿を残す思いがしきりにする

身近にあった「戦争」の記憶

タイトルは「平成残心録」です。

「編集長は貴方です」思いのたけを語り掛けましょう。情報は弾丸です。撃て!

召集令状が我が家に来たとき

マスメディアの劣化が盛んに取りざたされています。確かに、日本のメディアは、戦後70年を語る中でひどい「劣化症状」が見られるようになりました。

 その最大の原因は、情報の収集と拡散にインターネットがかかわってきたことのようです。日本のマスメディアは、歴史的には国家権力の持ち物として発達したように思います。最古の「東京日日新聞」は、一種の官報のような役割を果たしました。明治政府の意向を「新聞」が拡散させる作用を果たした。反権力の先頭に立った新聞紙はなかったのです。

 メディアの発達史は改めて研究したいと思います。

 現代のマスメディアについて考えるのですが、拡散される情報は、どうしても巨大情報網を持った企業に寄りかかってきたのでしょう。このことは皮肉にも「メディア」の力をメディア自信がコントロールするほかにない事態を生みました。

 インターネットは、巨大メディア」と同じように個々の民衆の中に「情報武器」として突き刺さりました。大衆は巨大メディアの弱点を知りました。その傷口をネット情報が押し広げました。 

 大衆の誰もがネットを使って、情報を瞬時に、拡散させることになりました。もはや、巨大目メディアに頼ることは無意味になったのです。

 このホームページも、情報の収集さえできれば、時間、拡散の柱になれます。そこで、実験ですが、「メディア」をつかみ取る戦略に皆さん参加しませんか。

 

 あの時、私の周辺には避けがたい「戦争」があった。

 昭和18年、父が海軍に召集された。私は5歳。記憶は断片的にしかない。今となっては推測になることは一切書かないこととしたい。

 なんでも我が家では春になると「摘み草」に出かけるのが毎年のことだったらしい。

 目黒駅から「蒲田線」で多摩川園前に行く。広々とした河川敷。「多摩川園遊園地」は私たち姉妹とって待ちに待った楽しみだった。姉、妹の誰が一緒であったかは記憶にない。多摩川の土手を「二子玉川」まであるこのガ恒例だった。

 「ヨモギ」の若芽を摘んで、端午の節句に「草餅」を作り準備だった。途中のことは覚えていない。

 夕刻家に帰った。家に入った時に母の異様な面立ちを見た。何かが起きていた、父を迎えた母の表情はこれまでにない緊張感があった。

 父も多くを語らなかったのだろう。今の「目黒通り」に面した自宅は、目の前に「大鳥神社」があった。父に手を引かれて「大鳥神社」に行った。お祭りでもない神社にたった二人で行った記憶がある。何かが起きていた。

 後から母や祖父母に話を聞いたが、その日の正午過ぎ、「在郷軍人会・連隊区司令部」から召集令状が届けられたという。当時の戦局がどのようであったかは知る由もなかった。

 その日から我が家は「壮行会」で大騒動となった。

 父は「在郷軍人会」の目黒第5分隊副分隊長だった。徴兵検査では幸い「甲種合格」ではなく、町会では世話役を果たしていたらしい。

 第5分会長は「大工」の「高橋さん」が父の「召集」の世話役となった。目黒通りに面した店先と、2階が「壮行会」の会場となった。

 出征は2日ほど後だったと思う。召集令状が何を意味しているかは当時の人々は誰でも知っていたと思う。

 町内会の人たちが省線「目黒駅」の改札口に立って「千人針」を集めてくれたという。

 それがいつのこととはわからない。当時の「商家」は、南向きはすべて店先で家の中までよく見えた。 夕方だった。おそらく「壮行会」が終わった後だったろう。北向きの台所の片隅だった。母が泣き崩れていた。長い時間だった。「嗚咽」ではなく、低く続いた泣き声は、誰も寄せ付けない悲しみにあふれていた。祖父母が母に覆いかぶさるようにして泣いていた。

 5歳の私は、その嗚咽に気押されて泣いたような気がする。父の姿は思い出せない。

 

昭和18年春。戦局窮迫。戦火は東京に迫りつつ

在郷軍人会の「銃後」の生活

戦時下、ひそかに行われた「軍事統制」

下の写真は、召集前に記念撮影された「在郷軍人会」副分団長のの制服姿です。

徴兵検査が終わった直後に移したものらしい。軍服姿の写真は少ないが、この「在郷軍人」の制服はどことなく「父の姿」として記憶がある。一商家の長男で、軍歴のない父が、「在郷軍人」として、地元の」隣組組織でかなりの発言力を持っていた理由はわかりにくい。

 「在郷軍人」と当時町内を組織化していた「冨士講」の存在も記録しておかないとわかりにくいと思う。

「在郷軍人会」とはどんな組織だったか

軍政の要は「在郷軍人」が暗躍した。

 もともと「在郷軍人会」は、軍務を離れた軍人が入会した団体だった。

明治43年に予備役、後備役の軍人の「軍人意識の向上」、傷病軍人。遺族の救護を考えた「元軍人」による統一団体として発足した。

 伏見宮貞愛親王を総裁として発足している。当時の陸軍省軍事課長・田中義一がドイツの仕組みを参考にして全国組織として編成しています。

 陸軍のみの組織だったのですが、1914年(大正3年)に海軍も入れて陸海共通の組織となりました。

 発足の趣旨は「会は。聖旨を奉戴し、軍人精神の振作、軍事知識の増進を主眼として。他に社会の公益をはかり、常に国民の中堅であることの実を挙げることを目的とする」と述べています。

 国民の総動員体制を維持するための組織で、後に、言論の抑制、「軍事行政」を社会の隅々まで浸透させました。

 本部は陸軍省におかれ、各府県を単位とする支部、市町村・会社を単位として「分会」が設置されました。

指揮はは各地の師団司令部、連隊区司令部が行いました。

 軍人でもない父が、なぜ「在郷軍人会」に席を置いていたのかは解りません。しかも、召集は海軍であり、「副分隊長」として町内会の組織化に力を注いでいたことは事実のようです。

 

 

「縁故疎開」と「田舎への逃避行」

父も母も生粋の「江戸っ子」。その江戸っ子が見も知らぬ「白河以北」の陸奥へ。訪ねて訪れた「避難所」は村はずれの小さな寺院。今になって調べても「何宗」なのか不明。本堂の真ん中に「護摩壇」が有ったのだから「密教系」の寺院だったらしい。

 新しい日記を本日からこのページに書き入れることにした。しかし、日記は極めてプライベートなもの。

 そのプライベートな部分を省いたら全く意味のないモノになってしまう。後世に「日記」として認められる事もないので、そこが思案のしどころだ。ドナルドキーン博士が「百代の過客」と題して日本の文学、歴史の中に残された「日記」を集大成している。アングロサクソンは自ら書いた「伝記」を後世に公開されることが好きらしい。「日記」と「伝記」の区別がどうも解らない。キーン博士は「日記」が「日本人の精神的歴史」として価値があると言っている。土佐日記、更級日記、など日本人が残した「日記」はまさに「日本文学」の最高峰にある。そこまでになる日記を書く自信は元よりない。ただ、現に起きている「出来事」を多少の「感慨」を込めて書き残すのも面白いかも知れない。あくまで「社会評」の範囲に過ぎないが、ともかくも書くことにしたい。

12月23日(月)

 能「清経」を見る。西海で身を投げた清経と、出陣を前に生きての再会を約した妻の怨み。平家の没落を宇佐八幡の神託で知る清経。戦わずにして修羅道に落ちた運命の悲劇が身にしみる美しさであった。

 「戦う」ことをしばらく忘れていた。「老残」のさみしさがある。

 昨夜「穴八幡神社」守りを買った。来年の恵方「北東」に向けて祀る。厄神、歳得神の幣帛は28日に祀ることとする。

   「60年安保闘争」もう一つの体験

6.15事件・忘れられた「暴力」への幻想

国会突入の準備を始めた「ブンド」系学生たち

「60年安保闘争」はも早や「伝説」になっている。その激しい戦いが渦巻いている真っ只中に大学に入った。6全協で日共は突然「平和路線」に転向した。多くの学生が思わぬ展開に悩み、左翼戦線から脱落。高校時代に日本共産党の指導で「立川闘争」を戦った友人は「左翼不信」に陥り、新しい流れができるのを待った。

 そうした若者たちに共産主義武装革命、一点突破、全面展開という、いわば「維新的」イデオロギーを持った集団が姿を現した。彼らは「ブンド・共産主義者同盟」を名乗って、まず裏切り者の「日本共産党」を「暴力的」に叩き潰す勢いを見せた。

 大学に入った時にあの「日共」が指導していた「全学連」は、そのブンドに占拠されていた。歌声運動、ホークダンス、機関紙「赤旗」の部数拡大。二段階革命論でまず民主的に運動を展開し、市民をごまかして権力を掌握する方法論は、権力には「暴力的」に立ち向かわなければならないと言う「ブンド」の戦術的方法論に粉砕された。反安保闘争で、デモ最優先の「日共」に「デモでは政府は倒せない。暴力には暴力だ」と言う勇敢なグループが学生たちを魅了していた。

 反安保闘争が先鋭的になってきたのは必然性があった。安保条約の屈辱的な片務性は何とかしなければならないことは保守、革新ともに感じていた。地位協定に象徴される「米軍優先」の協定を双務的な条約にしようという保守のイデオロギーも納得できた。「安保維持」を掲げたわれわれの運動はそれなりに「理論的」だったはずだ。しかし、安保破棄を叫ぶ大衆の動きは止められるものでもなかった。ブンドは「革命軍」の武装化を説いていt。非武装中立などはあり得ない「革命論」だった。安保を破棄した後にどのようにして日本の安全を守るかなどは「詩的」な言葉でした考えられていなかったのではないか。清水幾太郎、丸山真男など大衆運動のバンドワゴン的評論や運動をはやし立てた知識人たちは、安保後の日本をどのように想像していたのか。彼らの罪は深い。多くの学生たちが彼らのために死に、人生を誤ったか。

 あの日、「全学連は国会に突入する」と公言していた。暴力と権力のありようがどのようなものであるかは学生たちは知っていた。ただそれが「幻想」で終わるおそれもあることを知識人は語らなかった。彼らは卑怯だった。

 「安保維持」を考えていたわれわれは「騒乱」を予想していた。その場合われわれは「自民党本部」に突入し、安保維持を明確にする政権に組みする戦略を考えていた。結果的には「自民党青年部」に組み入れられることになったが、自民党本部で「政治」「権力」の姿を見ることも必要と考えていた。

首相官邸内の機動隊。

新宿御苑近くの「安保推進派」のアジトを数人ずつに分かれて出た。公安が監視しているのがわかった。世間で云う「右翼も動く」と云う情報があったのだろう。われわれは騒乱状態になった場合の集合地を「国会図書館正門前」と決めていた。ただ決めてあったのは「自民党本部に突入し、同党「青年部」として行動すると言うものだった。いずれにしても「暴力」が「コトを決める」と信じていて、身震いをしていた。

 午後、赤坂見附方面から国会議事堂に近づいた。付近は学生を中心にしたデモや、その外側には共産党系の労働組合が取り巻いていた。

 参議員の通用門近くでブントの様子を見ていた時、一瞬「静寂」があった。その「静寂」を突き破るように一台のトラックが群衆の中に突入してきた。猛烈な勢いで数十人がなぎ倒されるのを恐怖のなかで見た。そのあとから、黒い服装の一団が「維新行動隊」と言う旗と木刀を掲げて突入してきた。赤坂見附で右翼が集まっているという情報があったが、木刀で武装しているとは想像していなかった。後で解ったことだが、東洋大学生を中心にした「護国青年隊」約100名だった。

「右翼の攻撃」がブンド「突撃」の引き金を引いた。

 この日、我々雄弁会は激しい学生運動の中で支離滅裂な状態だった。多くの会員は「自民党青年部」に属していたが、その他、民社党、社会党右派などに関り合いを持ち、統一的な運動など出来る状態ではなかった。「何かが起きる」と言う情報が「ブント」系の学生からあったことは覚えている。雄弁会の「旗」が行方不明になったのもこの日だった。

 「維新行動隊」の攻撃は、デモ隊の中でも最も弱い、市民団体に向けられたのは大衆の怒りをかった。当時は、市民団体はごく普通の服装をしており、今から思えば「共産党」の指導をうけた組合組織だったような気がする。

 「視察」と称していた我々数人は、「ブント」が南通用門を突破しようとしていると言う情報に、そこに一番近い、首相官邸前に異動した。

 衆議院の面会所前から、南通用門にかけては学生達が密集状態だった。国会の正門は、機動隊の車両が並びバリケードを作っていた。

 南通用門の前に出ると、数人の学生風の男が手拭いで覆面をして太いロープで警察車両を引きだそうとしていた。


 最早、機動隊にも手の負えない状態だった。南通用門は破られ、警察の車両が次々と引き出された。

     6・15の記録。学生は闘った。

16:20 デモの先頭部分、南通用門に到達。明大生、ポケットからペンチを取りす。

             門補強の針金を切る。

16:38 投石始まる。

17:40 南通用門全開。学生は阻止線の警察車両ボンネットに登り

      破壊始める。

17:40 第4機動隊南通用門に配備。

17:55 学生が警察車両引き出す。

18:12 警察「放水」の警告。

18:16 学生警察車両に放火。放水開始。

18:40 警察、門内50メートル退却。

18:55 久松・神田署部隊撤退。負傷多数。

18:56 第一方面機動隊撤退。

19:06 学生旧議員面会所を占拠

19:10 警察官相当負傷

19:40 門内排除開始

15:55 官邸前で「警官が学生を殺した」と女子学生が叫ぶ。

20:20 門内の学生4000人

20:35 強制排除開始。催涙弾発射

 

 私は「南通用門」から国会内に入った。全学連・主流派の学生が宣伝車を入れ集会をはじめた。門を入ってすぐ右側に藤棚があた。その上にのぼると、学生達を包囲するように多数の警察官がいた。藤棚の下に警察の「装甲車」らしきものが一台あった。誰かが「中に警官がいる」と叫んで鉄パイプのようなもので壊し始めた。細い「窓」らしきものがあり、そこから除くと何か動いた。確かに警官のようだった。

 「警官には恨みはない。手を出すな!」と思わず叫んで周囲の学生を制していた。

 そのころ小雨が降り始めた。南通用門の前の道を挟んで地下鉄の入口があった。その入口のに庇があった。モルタル塗りの議員会館があり、そこに水道があった。藤棚から降りて、中がよく見える所に異動することにした。靴と、ズボンがかなり汚れているのに気づいて、まず水道で顔を洗い、靴を洗って、地下鉄入口のひ庇の上に登ろうとした瞬間だった。「ウオォー」と言う叫びが聞こえて、警察の反撃が始まった。

 警棒が使用された。パチパチと言う警棒が学生の頭を烈しく叩く音がした。学生達は南通用門を追い出された。この衝突でブンドの「樺美智子」が死亡したのだろうと思う。負傷した学生を助け出そうにも機動隊の攻撃は猛烈だった。国会正面入り口方面では催涙弾の発射音が聞こえた。霞が関方面への下り坂を警官に追われて逃げたが、至るところから警官が警棒を振りかざして追いかけてきた。

 三宅坂方面から、警視庁の横を通り、有楽町方面に向かった。その途中で「女子学生が死亡した」と言う噂を聞いた。

 小雨で濡れた身体に、恐怖が重なって、何処をどう逃げたのか解らない。有楽町の「日劇」の前でようやく「正気」に戻って、そこから新橋まで歩き、国電に乗って目黒に帰った。午前零時過ぎだった。

 私の「安保」はこの時で終わった。

 加えて、安保闘争に明け暮れ、その頂点に至ったとき、突然新聞に「七社共同声明」が掲載された。「ことの所以はともかく、暴力を排し国会に戻れ」と言うマスメデイアの「宣言」だった。

 国民は左翼も、右翼も無く「国会の形骸化」を」見過ごすことが出来ずに立った。不平等条約である「日米安保」の本質を説かずに、倒閣に動いた既成組織に「暴力」を持って戦った。「権力」と「暴力」とのきわどい関係を知りつつ戦った。

 しかし「メディア」はその足元をさらった。「事の所以」こそ最も重大なことであり、先頭に立った学生達は、振り返った時、そこにいるはずの大衆は煙の如く消えて無くなってしまった。

「メディア」への不信は覆いようもなかった。

 恐らくこの時に「メディア」の内側に入ってやろうと決心したようなきがする。

 大衆は「暴力」を嫌った。当たり前のことなのだが、「暴力」の幻に賭けた学生達も消えていった。ブントは消え、偽りの「平和主義」を唱える共産党は「歌声運動」で、薄っぺらな学生達を集めていた。

 60年安保の終焉。70年安保闘争では新聞記者として「メディア」の内側にいた。「過激派」と言う言葉、大衆と若者達を隔てる壁になってしまった。 

 

 反安保のデモで騒然とした
 反安保のデモで騒然とした

What's New

我が家の正月

上の写真が、我が家の伝わっている「秘法」です。 曾祖父「角蔵」が口伝で父に伝えたものを書きうつしています。 江戸時代のどの家でも同じようなものがあったのだと思います。

 左・厄神 右・歳徳神

上の写真は、毎年12月28日に当主が作る神様の寄り代です。特に左の厄神様は半紙の切り方が難しい。何時もうまくいかない。今回はまずまずの出来。

「歳徳神」さまです。三が日だけ、神棚からおろして和室の一角にお出まし戴きます。雑煮、洗米、若水を供えて当主がお祈りします。